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ドイツ&周辺諸国観光案内
Landshut

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街の紹介

ハイデルベルク、ローテンブルク、ミュンヘン、そしてお城はドイツ観光の黄金ルート。黄金というのは、「完璧な観光ルート。」という意味ではなく、旅行会社にとって黄金であるという意味です。日本であまりに有名になったので大きな宣伝しなくてもツアーは満席、いつも同じコースで同じホテル、同じガイドを使い、新しく手配する手間が大幅に省ける利鞘の高い黄金の観光ルートだ。とは言っても、時間のある人は一度行っても損はしない。時間のない人は、交通の便の悪いローテンブルクまでいかなくても、同じように綺麗で見所の多い町がミュンヘンの郊外にある。
その町の名前は、"Landshut"。地理の先生は怒るだろうがミュンヘンの右上、すなわち北東にある町で、ミュンヘンからレーゲンスブルクに向かう途上にあり、どちらの町からもちょうど70km、ミュンヘン空港からは50kmという地理上便利な場所にある。1日乗り放題の"Bayern-Ticket"(バス、路面電車、鈍行"S-Bahn"と快速電車"RB"に乗車可能。EC,IC,ICEは不可。)を使っても、ミュンヘンからかっきり1時間で行けるので、十分に日帰りが可能だ。ランズフートの中央駅に着いたら、駅の正面にあるバス乗り場から3番,6番,あるいは12番のバスに乗れば町の中心地、かつ観光名所である"Altstadt"までたったの5分でいける。

バスから降りても観光ガイドはおろか、日本人観光客の姿さえ見ることがないくらい、この町は隠れた穴場だ。観光ガイドが居ないので、まずは町の歴史を紹介してみよう。市内では紀元前5500頃の居住跡が見つかっている。当時から住みやすい場所だったに違いない。この土地がゲルマン化されたのは紀元後、500年あたり。バイエルン族が今のチェコ地域から移住を始め、南ドイツから現在のオーストリアにかけて住み着いた。他のゲルマン民族と違い、主に農耕で自給生活をしていたという。その農耕社会から、農耕に必要な道具を作る職人や農作物を他の生活必需品と交換する商人が生まれてきた。
愉快な町の名前は12世紀の書簡に、"Landeshuata"すなわち、 „Hut und Schutz des Landes“、日本語では「帽子と土地の守護」と書かれており、当時からこの町はこの名前で呼ばれていたようだ。ちなみにHutは「先端部分を守る覆い」という意味もあるので、それが語源的には正しそうだ。というのもこの町の起源は、バイエルン伯爵とレーゲンスブルクの大司教の権力争いに起因するからだ。バイエルン伯爵は大司教の権力基盤を崩すべく司教の所有する城砦を破壊すると、司教の動きを監視するために新たな城塞都市の建築を命じた。ランズフートは当時、イザー河畔にある村落だったが、河の真ん中に大きな中州が広がっていた。お陰でお金のかかる長い橋の変わりに、短い二つの橋で済み、費用と時間が大幅に節約できるメリットがあったので、この土地に町が建設されることとなった。さらに当時、交易は河畔を使っておこなわれおり、イザー河畔のこの町はまさに交易にうってつけだった。

町が建設されると多くの商人がこの地に定住、13世紀にはバイエルン伯爵もこの地にを構えて定住、事実上バイエルン王国の首都として発展を始めた。その後、伯爵がバイエルン伯爵領を二人の息子に二分して与えると、南バイエルン領の首都はミュンヘンに、北バイエルン領の首都はランヅフートに置かれた。その後、およそ100年後だが、バイエルン領はふたたび統一され、統合後の首都はミュンヘンに置かれたため、ランヅフートの政治的な発展はこれにて終わってしまうかのように見えた。
ところが領主の死により、バイエルン領は三つの伯爵領に分けられて、三人の息子に相続される。この三つの伯爵領の中でも一番裕福になったのが、ランヅフートを首都にする"Bayern-Landshut"伯爵領で、ランヅフートは14世紀から15世紀にかけて最盛期を迎える。まずレンガ建築では世界で一番高い聖マルチン教会の建設が始まると、同時に神聖霊教会の建築も始めるというお金の使い振り。町の有名な建築物の多くのは、この時代の建築物だ。町の発展に大いに貢献した領主が死ぬと、ランズフート伯爵領はミュンヘン伯爵領に吸収されてしまう。その後はミュンヘンが優遇されて、ランズフートの政治的な価値は低下していく。



17世紀の30年戦争ではスウエーデン軍に占領され、町は甚大な被害を受ける。苦労してやっと町を復興させると、18世紀にはオーストリア帝国軍が進駐、8つあった町の砦の7つを破壊していった。町の侵入に大きな妨げにならない小さな門だけが破壊を逃れた。イザー河畔を歩くとかっての城壁の一部見張り台などが残っており、かって町が要塞化されたいたことを偲ばせてくれる。19世紀になると町は再び表舞台に戻ってくる。バイエルン伯爵が、「ミュンヘン一極化は避けたい。」と大学をミュンヘンからランズフートに移動させると、1000人もの学生もこの町に引っ越して、また栄華を取り戻した。が、次の領主になるとまたしても大学はミュンヘンに戻されて、現在に至っている。

ランズフートの表通りに入ると、はっと息を呑む。市庁舎は言うに及ばず、見事な装飾を施された建物道の両脇に立ち並んでいる。観光地というと、表通りは観光名所だが、これを一本後ろに入ると普通の民家だったりする。裏通りから、路地裏まで見事な建築物で一杯。なのにランズフートは世界遺産にも指定されてないので、観光客は驚くほど少ない。ただし観光客が唐突に増える時期もある。
ランズフートの一番の見所は、4年に一度開かれる"Landshuter Hochzeit"というお祭りだ。これは上述の町の発展に多いに貢献した"Georg der Reiche"、すなわちゲオルクお金持ち伯爵の結婚式を再現するお祭りだ。この結婚式は1475年に行われたが、320頭の牛、1500頭の羊、500頭の子牛、4万羽の鶏が振舞われたという伝説の結婚式だ。1880年、市はミュンヘンの芸術家に当時の結婚式の様子を市庁舎に描くように依頼した。その出来栄えがあまりにも素晴らしいので、「結婚式を復活させて、町で祝おうじゃないか。」ということになり、1903年から当時の結婚式を復元して祝うこととなった。もっともあまりに費用がかさむで、4年に一度しかも開催されない貴重なお祭りだ。期間は6月末〜7月末までほぼ1ヶ月もの間続くが、誰もがお目当てなのは結婚式のいつ終わるともしれない行列だ。この日だけで人口6万6千人の町に、10万人もの観光客がやってくる。最後に催されたお祝いは2013年だったので、まだ次回のお祭りまでには十分に時間がある。結婚式がなくとも、一度は見て置く価値があるので、ミュンヘンまで来たら、是非一度、訪れてください。歩き疲れてから、カフェで飲む冷たいドリンクは格別です。ただし値段は5ユーロと少々"happig"。*

* 俗語で、「お高い。」という意味。英語の"happy"の書き間違いでありませんです。念のため。

ランズフートまでの送迎はこちらをご覧ください。  バス路線図(PDF)


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