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ドイツ&周辺諸国観光案内
Landsberg am Lech

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街の紹介

折角仕事を休んで、「お城が見たいっ!」言う友達を連れてきたのに、お礼の言葉の代わりに、「日本人ばっか〜。」と言うお友達はランツベルクに連れて行こう。ランツベルク、正式にはLandsberg am Lech(レヒ河畔のランツベルク)といい、アウグスブルクから南に40km、ミュンヘンからだと西に50kmの距離にある人口は3万人にも満たない小さな町。町は小さくてもその歴史は古い。12世紀、ザクセン公爵のハインリヒ獅子公が当時の「金のなる木」、塩のルートを安全にするため、レヒ河が狭くなっている場所に橋を設けると貴重な品を守るため、要塞を建設した。この要塞を„Castrum Landespurch“と呼んだのが、町の名前、そして町が建設される起源となる。
14世紀にバイエルンとオーストリアとの間で戦争があり、この町は戦禍に巻き込まれて焼き落ちてしまう。幸い街は戦術的に重要な場所にあったので、バイエルン候は町の復興を命じ、同時にこの町に「塩の関税」を徴収する権利を与えたことから、町はお金持ちの町に成長を始める。その後、レヒ河を利用して穀物や木材を取引されるようになると、町は交易で稼いだ金で町の東端に"Bayertor"を建設、ミュンヘンから運ばれている塩はこの門を通って市内に運ばれることになった。ちなみにこの門がバイエルンとシュバーヴェンの境界線でもあった。
16世紀、バイエルン公爵が当時広がりつつあったプロテスタントの動きを封じ込めるため、ランツベルク同盟を発足させる。これが原因でプロレスタント派のスウエーデン軍が町に侵攻、500人を残して町の住民を皆殺しにする。500人は改修してプロテスタント軍として戦うことを誓ったので、命だけは助かった。
アドルフ ヒトラーがここの刑務所に座っていた際、"Mein Kampf"(の一部)を口述したこともあることで町の名前は有名でもあるが、現在の街の住人にはタブーなので、間違っても当時のことにはふれないように。同じタブーが、この街の郊外に巨大な強制収用所があったこと。「ダッハウにもあったじゃん。」と得意になって指摘するお友達には、「ダッハウはね、政治犯の収容所なの。ユダヤ人の絶滅収容所は、ドイツ人の目にふれないように占領地に作られたの。ここにあった収容所はユダヤ人の収容所で、ドイツではここにしかなかったの。」と辛抱強く教えてあげよう。戦争中、ランツベルクは連合国による爆撃がなかった幸運な街。一度だけミュンヘンに向かう戦闘機が小型の爆弾を投下したのが唯一の爆撃の経験だ。お陰で古い建造物が多く残っている。
まずはランツベルクの"Wahrzeichen"となっている"Lechwehr"から始めよう。街の名前にもなっているレヒ河は、この部分に急な高低差があり、ちょっとした滝になっていた。お陰で流されてきた木材などが、滝底に溜まり、河川を水路として利用する障害となっていた。そこで14世紀なって"Wehr"(堤防)、正確には階段のような形に河川工事を施して、以来、ランツベルクの象徴となっている。
ランツベルクの中心部、"Hauptplatz"(中心地)に来て最初に眼を引くのは、"Schmalzturm"(脂肪塔)だ。おかしな名前の由来は、かって天気がいい日(ein schöner Tag)には、ここで動物から採取した脂肪(Schmalz)が売られていた。そこでこの名前が付いた。別名、"schöner Turm"(綺麗な塔)とも呼ばれており、本当に綺麗。この塔は街の最も古い建造物のひとつで、14世紀に建造されている。この中心部には同じく目をひく"Altes Rathaus"(旧市役所)が建っている。17世紀〜18世紀に建造され、外壁に書かれた壁画が有名だ。市役所の前には"Marienbrunnen"(マリア噴水)があり、ソファーまで並べられて市民の憩いの場になっている。噴水の真ん中には名前の通りマリア像が建っており、こちらも17世紀の建造物だ。広場の片隅には見取り図もあるが、初めて来ると何処が見所なのかわからない。
中止部は先に進むに従い細くなり、先っぽにはでかい建物がど〜んと建っている。これは修道院で、18世紀の建造物だ。そこまで歩いていく前に振り返って"Hauptplatz"の写真を1枚。車の列が切れるのを待って、車道に出て撮ると綺麗に撮れます。修道院の先にはレヒ河を渡る橋がかかっており、対岸はランツベルクの典型的な写真を撮る有名スポット。そのまま5分ほど歩くと、"Mutterturm"が見えてくる。これは街の歴史には関係なく、街の有名人(画家)が母を回顧して建造した塔だ。
「えっつ。ランツベルクってたったこれだけなの?」と早合点せず、来た道を引き返して、今度は丘を上ってみよう。ランツベルクの主要部分、すなわちかっての城は防御を考えて丘の上に建っていた。丘には古い家屋がたくさん残っている。一見すると、「屋根だけの家?」と思えるが、斜面に立っているので入り口が2階にあるだけ。逆の方向から見ると立派な2階建ての家屋だ。
残念ながらかっての城はもう残っていない。「ここに城があったんだろうな。」と思われる城壁だけがが残っている。かって城があった場所には、"Schlossbergschule"(城砦学校)が建っている。学校の木陰から"Heilig-Kreuz-Kirche"が見える。ここまでいくのが結構大変。坂を上って、降りて、やっと辿り着くとこれがとっても狭い場所に建っている。この教会と冒頭で述べた"Bayertor"が丘の上のメイン イベント。あとは坂をくだるだけ。かってこの坂は塩を積んだ人力車、牛車が横行していたので、ドイツで唯一の左側走行の道。坂道沿いの家屋は、玄関のドアに鍵をかけるのを禁止されていた。なぜかおわかりだろうか。それはブレーキが壊れて狭い坂道を下りだした車に引かれないように、通行人が家屋に逃げ込めるようにするためだ。
坂を下ると先に前述の「綺麗な塔」が見えてくる。これで(町の西部分を除き)ほぼ街を一周したことになる。まだ元気があるなら、この裏通りを回ってみよう。"Hexenviertel"(魔女区)と呼ばれるこの場所には、独特の建造物を見ることができる。 これだけでたっぷり3時間かかるので、「足が痛い。」、「トイレに行きたい。」と言い出すお友達をレヒ河畔のカフェに連れて行こう。小川やレヒ河が流れており、とっても雰囲気のいい地元民の憩いの場です。カフェで注文するお金がない生徒は、飲み食い持参でここまでやってきて宿題をやっている。日本だったら、「壁に乗ってはいけません。」という看板が立って、それでも壁に登ると「落ちたらどうするの。」と言われるが、自分の責任制のドイツでは看板もないし、誰も何も言わない。「危ないのは、看板なんかなくてもわかるでしょ。」というわけだ。その代わり落ちても自分の責任。そうそう、この付近にはランツベルクのお金のなる気、塩を貯蔵した"Salzstadel"(塩倉庫)が残っており、現在は家屋、店舗として利用されている。
日本人観光客の姿は言うに及ばず、観光客の姿自体まばら。しかしそこそこの観光資源を備えており、半日観光にはぴったり。ミュンヘンから近いので、「城はこの前見た。」という方は、一度お試しください。歩きやすい靴は必修です。


ランツベルクまでの送迎はこちらをご覧ください。



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