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ドイツ&周辺諸国観光案内

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街の紹介

「ハノーファーはね、、」と言った途端、「それを言うならハノーヴァーでしょ。」とご指南を受けることがありますが、ドイツ人はハノーファーって言います。アクセントを「ノ」に置いて発音すると、さらにドイツ語っぽい発音になります。名前の起源(原因)になったのは、町を流れるライネ川。一見すると穏やかな川ですが、雨が降るとすぐに氾濫して一帯が水没するので、住むには都合が悪い場所。そこで先住民は岸が高くなって、浸水から守られている場所、ライネ側の東側に町を築いた。そこでこの町は"Honovere"、すなわち "Hohes Ufer"(高い岸)と読ばれたという説が一般的。しかし、「それは違う。古典ドイツ語の"Hahnenufer"が訛って、ハノーファーになった。」という説の方が言語学的には正しい気がしますが、これを語り始めると終わりがないので、この辺でご愛嬌。興味のある方はドイツ語を勉強されてから、文献を紐解いてください。
ハノーファーにも、「ハンバーグはハンブルクが起源」という伝説に近い、ハノーファー伝説が存在しています。それは、「ハノーファーで話されているドイツ語が標準語。」というものです。ドイツ語を学習された経験のある方は、聞いた事がある筈です。「聞いた話」で満足せずに調べてみると、事情は少々異なってるようです。実は北西ドイツでは独特のドイツ語、"Plattdeutsch"を話すことで有名です。何を言っているのか、全くわかりません。19世紀の中ごろ、オストファーレン、ブラウンシバイク、それにハノーファーに住む上級階級層が、無教養の階層と区別をするために、書かれたドイツ語の通りに発音する「お上品なドイツ語」を話し始めます。まさに話し方で「お里が分かる。」というものですね。これをその他の階層も真似をすることにより、この地域だけは、方言を話さなくなる不思議な現象が起こりました。その結果、この地域で話すドイツ語が"Hochdeutsch"(標準語)に近くなったわけで、この地域で話すドイツ語が、標準になったわけではありません。しかし現代のドイツ人は(バイエルン人を除き)、書かれた通りに発音するので、別にハノーファーに留学しなくても、標準語を学ぶことができるので、ご心配なく。
この地の最初に住み始めたのはゲルマン人の一部族。その後、ローマ帝国の支配下の置かれる。3世紀にこの町で生まれたアレクサンダーはローマ皇帝にもなっている。この地が発展を始めたのは12世紀、フランク族は"Welfen"(ヴェルフェン家)のハインリヒ獅子公が、南ドイツの領主だったバルバロッサが神聖ローマ帝国の皇帝に就任するのを助け、その武勲で関税を徴収する権利を与えられたことによる。これにより人も羨むお金持ちの町になったハノーファーだが、お金持ちの町はその富を横取りしたい諸侯の標的になった。14世紀には防衛の為に町を城壁で囲み、幾つもの見張り塔を建造、町は難攻不落の城塞都市となった。そしてお金持ち同盟のハンザ同盟にも参加、町は栄華を享楽する。
30年戦争でも被害とほとんど受けず、17世紀には広大な地域を支配するハノーファー選帝侯領となる。このままますます発展するかに思えたハノーファーだが、選帝侯のゲオルグ1世がジョージ1世として英国の君主に君臨すると、居住地をロンドンに移した為に、ハノーファーを放ったらかしにして、町は衰退を始める。
この隙を利用して東方からやってきたのが、プロイセン。規模の上では小国であったプロイセンは、世界で始めての徴兵制度を導入して、小国ながら大規模な軍隊を保有していた。当時のドイツはハノーファーに象徴されるように小国の集まりで、"Deutscher Bund"と呼ばれる烏合の衆だった。これを利用してハープスブル家、すなわちオーストリア帝国が"Deutscher Bund"の宗主国としてドイツを実質上支配していた。このオーストリアの支配を崩すため、ビスマルクはオーストリアを挑発すると、「ドイツ戦争」として歴史に残ることになるプロイセン+同盟軍と"Deutscher Bund"+オーストリア帝国との戦争になる。プロイセン軍はたかが13個師団で数の上では劣勢だったが、軍を指揮するのは大モルトケ元帥。元帥は"Deutscher Bund"に間隙を与えず、次々に小国を各個撃破していった。当時、選帝侯領から王国と名前を変えていたハノーファー王国と当時は強大だったデンマークは同盟を組んでプロイセンに抵抗したが、歯が立たなかった。長く続いたヴェルフェン家はドイツ追放の憂き目に遭い、ハノーファー選帝侯領とデンマーク人の多く住む北ドイツは、プロイセン領となった。その後、プロイセンがドイツを統一すると、ハノーファーはドイツ第二帝国の一都市になりさがってしまうが、産業革命の波に上手く乗り、町は発展を続けた。
ヴェルフェン家にとって幸いだったのは、亡命中のハノーファー皇太子が許しを得てドイツの皇帝に表敬訪問した際、皇帝の娘がハノーファー皇太子に一目惚れしたこと。その後、めでたくご結婚となり、ヴェルフェン家は再びハノーファーに帰国して、かっての領土を復活させることに成功した。ヴェルフェン家にとって災いだったのは、義理のお父さんが、イギリスに住む親族を相手に戦争をおっぱじめたこと。第一次大戦はドイツの敗戦に終わり、ヴェルフェン家の王は、義理のお父さん同様、退位させられてしまう。ヴェルフェン家にとって幸いだったのは、ワイマール共和国が接取された王家の財産の大部分を返却したこと。お陰でヴェルフェン家は本拠を親戚の住むロンドンに移して、まるで王様のような生活を今日まで送っている。
20世紀には町の人口が40万人を越え、ドイツ有数の大都市になる。ハノーファーの象徴となっている新市庁舎もこの時期に建設され、除幕式にはドイツ皇帝も訪れている。30年代には北ドイツの都市の中で、ナチスが真っ先に台等した。この町でのユダヤ人迫害は熾烈を極める。市内には強制収容所が建設されて6万人もの捕虜が強制労働に就かされていた。戦争末期、連合軍に席捲されそうになると600人が「安全な」強制収容所に向けて死の行進に駆り出され、250人が途上で射殺されている。さらに150名は共同墓地に連れていかれ、ここで射殺された。米軍がハノーファーを開放する4日前の出来事である。交通の要所だったハノーファーを破壊すれば、戦争遂行に欠かせない物資の移送ができないので、街は何度も爆撃に遭い、市内中心部はなんと90%が破壊されて瓦礫の野原となった。戦後、歴史的な建造物が再建されているので、見所は多い。
戦後、ハノーファーは新しく創設されたニーダーザクセン州の州都となる。ドイツを代表する二つの週刊誌、"Spiegel"と"Stern"は、この地で発行されており、経済活動は相変わらず盛んだ。ドイツ人がハノーファーと聞いて思い浮かべるものが二つある。そのひとつはクッキー/クラッカーで、1889年操業の"Leibnizkeks"だ。2013年、文字通り店の看板だった看板が盗まれる。犯人は、"Krümelmonster"。会社に脅迫状を送り、看板と引き換えに動物愛護団体に1000ユーロの寄付を要求した。会社はこれを拒否、その代わりに福祉機関に5200箱のクラッカーを送ることを提案。犯人はこれに同意して、看板は無事、返還された。
もう一つのハノーファーの名物は見本市。世界一でかいコンピューター関連の見本市、Cebitが開催されることで知られる通り、ハノーファーは見本市の町。これに加えてハノーファー大学、ハノーファー医大、音(芸術)大、その他数多くの大学がある。50万人を超える人口を抱え、「家賃が高そう。」と思ったら、かなり安い。デユッセルドルフと比較して2割、ケルンと比較して4割ほど安いので、留学生にはありがたい。



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