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ドイツ史 & ドイツの達人列伝

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ドイツ史

日本に限らず、ドイツでも歴史物のドキュメンタリーがよく放映されています。こうしたドキュメンタリー物は、歴史の解明を目的にしたものではなく、視聴率、つまり人気(金儲け)を目的にしているので、誇張や誤謬が多くなっています。特に日本では現実にはなかった会話や出来事を創設、「この瞬間に歴史が変わった。」と平気で歴史を改竄しています。「テレビで放映されるものだから仕方ない。」と言えばそれまですが、1分おきに歴史の書き換えが行われているのを見ると、頭を抱えてしまいます。
テレビで見た、あるいは週刊誌で読まれた歴史を真に取らないようにしてください。それは歴史ではなくて、娯楽(Unterhaltung)です。しかし「真に取らないように。」と言っても、「じゃ、本当はどうだったの。」という事になります。そこでここでは日本で頻繁に誤って伝えられているドイツ史、あるいは日本で知られていないドイツの歴史を紹介していきます。
ドイツに留学されるなら、ドイツ史について理解していれば、それだけドイツの生活を楽しむ事ができます。街中に立っている銅像を見て、「これって誰なの?」と思うより、「ああ、こんな所に〇〇〇の銅像が。ひょっとして、この人はこの町で生まれたのか?」と、好奇心がわいてきます。この好奇心こそが、ドイツを理解する鍵。このページを読んで、ドイツ史について好奇心がわいてくる事を期待して、以下にドイツ史を紹介していきます。

Richard von Weizsäcker (26.03.2015)

貴族出身の外交官の息子としてシュトゥットガルトの本当の城で1920年に生まれたワイツゼッカーは、人も羨む環境にあった。文句があれば、父親の職業柄、スイス、デンマーク、ノルウエーなどと転勤が多かったくらいだっただろう。子供の頃にさまざまな国に滞在する事で、その国の価値観に触れるだけでなく、外国語にも慣れ親しんだ。これが後日、同じニュースを聞いても、異なる観点からそのニュース判断する視点、そして複数の言語からニュースを仕入れて総合的に判断できる可能性を与えた。

フランス留学から帰ってきた1938年は会戦前夜。いつ戦争になってもおかしくない時勢であったので、すぐに、RAD(Reichsarbeitsdienst)、国主導のインフラ設備をする労働組織に召集される。しかし半年後には歩兵連隊に「転勤」、ここで兵士として訓練を受ける。その後、1年も経たないで第二次大戦が始まると、兄と共に連隊はポーランド戦線に投入される。兄はポーランド戦線で戦死、弟のワイツゼッカーは怪我もせず、生き延びた。その後、40年にはフランス戦、そして41年にはバルバロッサ作戦に参加、ワイツゼッカーの連隊はモスクワ奪取を命じられる。モスクワまで35kmの地点まで進出したが、夏の装備のまま真冬のロシアの天候にさらされた連隊は、モスクワ正面で壊滅する。ワイツゼッカーは運よく生き延びた数名の兵士の一人だった。このときの敵前での勇敢な行動により、第二級鉄十時勲章を得ている。

その後、ドイツ占領下のデンマークで穏やかな軍務に付くが、1943年には再び東部戦線に送られる。今度はレニングラード攻防戦に参加、敵前での勇敢な行動により第一級鉄十時勲章を授けられて、大尉に昇進する。ここでも負け戦となり、ラトビアまで退却、ここから船で東プロイセンまで撤退するが、ここで連隊はソビエト軍に包囲されてしまう。シベリア行きだけは避けたいワイツゼッカーは、部下を率いて凍った海を渡り、包囲を脱出する。この武勲で表彰されるはずだったが、終戦間際の為、表彰はお預け。敗戦が避けられないこの時点で、これ以上ナチスに加担するのは御免と、脱走。そして脱走先の南ドイツで終戦を迎える。

1945年にゲッテインゲン大学に入学、法律と歴史を専攻した。よくも終戦間もないこの時期に、新しい学生を募集したものだ。弁護士の国家試験に合格するだけでは満足せず、法学でドクターのタイトルまで獲得している。ドイツを代表する会社の法務部に就職すると同時に、CDUの党員となる。1967年以降は経済から身を引いて、政治家として党内でのキャリア積みに専念する。1981年には当時まだ分団されたいた西ベルリンの市長に選出される。レーガン大統領がベルリンを訪問して、「ゴルバチョフ書記長、この壁を叩き倒してくれ。」という有名な演説をしたときのベルリンの市長であった。皆まで言えば当時の首相はシュミット首相で、「最も尊敬する政治家は。」というアンケートでトップと2位の座を占める二人の政治家が、同じ時期に政務に就いていた
          
1983年には政府与党の大統領候補として大統領選に出馬する。与党の候補であるから過半数を獲得して、1984年に6人目の大統領に就任する。ドイツ人でも、首相と違って、大統領の名前を覚えている人は少ない。2〜3人の名前が出てくれば、立派なほうだ。しかしワイツゼッカーの名前は、必ずこの2〜3人の中に入っている。その理由は氏が行った1985年の終戦記念日、5月8日の国会での演説だ。第二次大戦の数々の激戦地で戦った氏は、「ドイツ人として、終戦日の5月8日は喜べる日ではない。」と正直に告白、「国のためにと努力を惜しまず、大きな犠牲を受け入れたのに、すべての努力、犠牲が無駄だったばかりではなく、これは人間性への犯罪に使用された。」と、過去と真っ向から向き合った。そして彼の名前を歴史に流すことになった言葉は、演説開始から4分頃に発せられた、"Der 8 Mai war ein Tag der Befreiung."(5月8日は解放の日であった。)という言葉である。これまでドイツでは日本同様に、敗戦日と言わず、終戦日と呼び、戦争に負けた悔しみを押し隠していた。大統領はそのドイツ人に対して、「5月8日は敗戦日ではなく、ナチスの悪夢から解放された日だった。」と、悪く言えば加害者を被害者にする事により、ドイツ人の心に重くのしかかっていた敗北感に、「敗北は必要だった。」とする事で意義を与え、同時に罪悪感を取り除いた。

ドイツ人はほぼ例外なく、この説明を受け入れている。今や終戦日といわないで、「解放記念日」というくらい大統領の言葉は浸透している。ワイツゼッカー大統領が同じ演説で、「目をひらいて過去を受け入れば、それだけ自由になれる。」と語っているように、ドイツが戦争と言う名の下に犯罪を犯したことをドイツ人は受け入れている。今になっても侵略戦争と言う言葉でもめているどこかの国とは大きな違いだ。同じ敗戦国なのに、何故、もうひとつの国は、過去に目を閉ざし続けるのだろう。これは日本人特有の「ひいき心」にあるようだ。

日本チームが海外で対戦、ぐうの音も出ないほどの大敗をこうむっても、「惜敗」と報道、「全力を尽くして負けたのなら仕方がない。」とポジテイブに受け取る。敗北の責任は監督だけがかぶり、首を挿げ替えて、残りはそのままで、「次回は勝てる。」と思い込む。不愉快な原因究明は行われない。その一方で、ドイツチームがかって、ヨーロッパ選手権の予選トートーナメントで敗退したとき、「惜敗」とか、「全力を出したので仕方ない。」などという言葉は聴かれなかった。監督の采配に始まり、「若い選手の育成を怠った。」とこれまでは当たり前だったシステム全体の見直しが始まった。とにかく徹底特に原因究明を行った。その結果、あれから10数年経って、今やドイツチームは世界の頂点に立つことができた。しかし日本はサッカーでも歴史の理解でも、10数年前から全く進歩していないどころか、世界レベルからまずます遠ざかっている。

ワイツゼッカー大統領は、奇しくも統一ドイツの始めての大統領になった。1990年の統一記念日の演説にて、„Sich zu vereinen, heißt teilen lernen.“(一緒になるとは、分けることを知ること。)と語り、これまで恵まれなかった東ドイツ市民をその貧困さゆえに差別するのではなく、西側の豊かさを、東側と共有する必要性を説いた。二期目の選出では、対抗候補が出馬を辞退するほど国民に人気があった。1994年に大統領としての任期が終了すると、さまざまな機関の長を務める傍ら、テレビにも出演して、国民の生活の改善ではなく、選挙に勝つための政治を行うドイツの政党政治を痛烈に批判した。その一方で、「お高く留まる。」事はなく、一般市民との議論にも参加、尊敬することを知らない庶民は大統領、a.D.を批判するので、議論の最中に怒りを露にすることもあったが、庶民と話すその姿勢、その飾らない性格が国民に親近感を抱かせた。

高齢になっても、元気な姿を見せていたワイツゼッカー(元)大統領だったが、2015年1月31日、94歳にて死去した。2月11日ドイツの首相、現大統領、その他、ドイツで名のある人物はベルリンのドームで行われた国葬に参列、ベルリン市民は大統領に最後の別れを告げるため、大統領乗せた車が通る道筋に立って敬意を示した。長い間ドイツの政治を見てきたが、真冬の路上に市民が長期間立って、政治家に別れを告げる光景を見たのは、これが始めだ。ドイツ政界は、実に惜しい人物をなくした。


1985年5月8日、歴史に残る演説を行う。





全権委任法 (19.08.2013)

この8月にかっての内閣総理大臣、現副総理が「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。」という発言を行って、国内ばかりではなく、海外、とりわけドイツから非難されて赤っ恥をかいた。首相経験者がこの程度の知識しかないというのが実に哀しいが、これが日本の実情。「それは違う。」と憤りを覚えた人よりも、「そうなの?」と思った人の方が多かった筈だ。日本のメデイアでも一斉にこのニュースを取り上げてはいたが、史実を忠実に取り上げている記事は皆無だった。記事を書く記者、中には大学教授もいたが、オリジナルのドイツ語の文献を読まないで、日本語で書かれた著作を読む。誰も一次文献を読まないので、現実とはかけ離れた記事になってしまう。これでは麻生副総理の二の舞だ。ちょうどいい機会なので、ここで当時どのように憲法の改正が行われたのか、ここで取り上げてみよう。

まず麻生副総理の言う、「ナチス憲法」というものは存在していない。同氏はドイツ語で言う、"Ermaechtigungsgesetz"の事を指しているものと思われる。ermaechtigenは、「権力を授与する。」という意味で、"Gesetz"は法律/憲法である。すなわち日本語に直すと「全権委任法」である。まるでこの全権委任法はナチスの専売特許のように書いている記事が多かったが、この法律は1914年に導入された法令である。ナチスはすでにあった法令を使用したに過ぎないので、これは合法である。では、何故、そのような法律が導入されたのだろう。

当時は第一次戦争が勃発、政府が戦局を左右する重要な決定を早く下せるようにとこの全権委任法が導入された。もっともそれには条件があり、国会で2/3の賛成多数が必要であった。戦後、ワイマール憲法下でもこの法律は存続を続け、必要とあれば政府がこの全権委任法を施行する事ができた。実際の所、1919年から1927年まで合計10回も全権委任法が発動しており、麻生副総理の言う「ワイマール憲法は当時世界で一番優れた憲法だった。」かどうか、非常に疑問である。「世界で一番優れた。」というなら、どこの憲法と比較したのだろう。

1929年にドイツの戦争賠償金の支払い額が決定されると、ドイツ国内で「これをボイコットすべきである。」という国粋的な運動が起きた。俗に言う"Volksentscheid gegen den Young-Plan"である。しかし右翼を除いて国民の過半数は、「戦争を始めた(そして負けた)のだから、賠償金は仕方がない。」と考えており、ボイコット案は14%の賛成票を得たに過ぎず、あきからに少数派だった。1930年になると世界恐慌がドイツにも到来した。賠償金の大半を外貨で支払うドイツにはとりわけこれが効いた。最初の銀行が倒産を始めると、「やはりボイコット案に同意すべきだった。」と考え直す人が多くなった。同年の9月に行われた選挙では、先回たった2.8%の得票率だったナチスが18.3%もの得票率を獲得して大躍進した事からも、当時のドイツ国民の心情がよくわかる。
          
当時、ドイツの政権はドイツ中央党という政党が握っていた。とは言っても政局の不安定なこの時期、国会で過半数を獲得することは不可能で、緊急法案を多用するか、意見が合えば社会民主政党のSPDの支援を得て過半数を獲得、かろうじて政権を保持していた。すなわち実際には過半数を持っていない政権が緊急法案を多用して、政府に都合の良い法令を決定、施行していた。民主主義に"Den Rest"(止めを与えた)のはナチスだったが、ナチスが政権を獲得する前から民主主義は有形無実化していたのである。

経済危機が悪化し始めるとBrurning首相は、現在のメルケル首相のように、政府の支出を減らすことで国家予算の均衡を保もとうとした。経済危機の時期に政府が支出を減らすと、さらに経済危機が悪化するのはギリシャ、ポルトガル、スペインばかりではない。当時のドイツも同じである。これに外貨による賠償金支払いも加わって、日本の歴史の時間に学ぶ有名なハイパーインフレーションを巻きこした。ヒンデンブルク大統領はブリューニンク首相を罷免、シュライヒャー将軍の進言でこれまでは無名だった軍人上がりの政治家のパーペンが首相に任命された。この辺は、515事件後、政治における発言力を増してた日本軍部の状況と酷似しているのが面白い。

この騒乱時期の真っ只中の1932年に選挙があり、ナチスが34.7%の得票率を獲得して第一党に躍進した。国民の、「既存の政党に任しておいたら、状況が悪化する一方だ。」という諦めと、藁をもつかむ気持ちで多くの選挙民がナチスに投票した。ナチスは当然、政権を組むようにヒンデンブルク大統領からの要請があると思っていたが、ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルクは「欧州で最も進んだワイマール憲法」を無視、お気に入りのパーペンに政権を続行される事にした。ここにワイマール憲法の最大の弱点があった。首相が選挙で最大の得票率を得た党から選出されるのではなく、大統領が国会での勢力分布を無視してお気に入りの人物を首相に任命するのである。結果として首相は国会で過半数を獲得できず、緊急法案で法案を通して行く事になる。短期間ならともかく、これが「普通」の状態だった当時、民主主義はすでに片足を棺おけに入れてしまっていた。

議会は第一党に躍進したナチスに譲歩、国会議長の座を提供した。狡猾なヒトラーは、恐喝では右に出る者がいないゲーリングを議長に指名すると、国会運営を妨害させた。結局、パーペンは国会を解散、再選挙を宣言するしか他に手立てはなかった。1932年の二度目の選挙では、ナチスは得票率を33.1%に落としたが、それでもまだ国会内で第一党の地位を確保した。これでは国会審議は全く進まないので、パーペンは責任を取って首相を辞任した。ナチスは「今度こそ!」と期待して大統領からの内閣樹立の要請を待っていたが、ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜいをビスマルクの椅子に座らせるわけにはいかん。」とこれを拒否、またしても「欧州で最も進んだワイマール憲法」を無視、1932年12月3日、今度はシュライヒャー将軍に政権を任せる事にした。この辺は、東条英機将軍が首相に就任した日本の状況と酷似している。
          
がっかりしたナチスは合法化されたSA(Sturmabteilung)、すなわち悪名高い突撃隊を街頭行進させて、ドイツ国防軍に挑戦した。内戦の危険度が増すと産業や銀行業界、そして農家団体から、「ヒトラーを首相に任命してはどうだ。」という陳情があがってきた。「シュライヒャー将軍にまんまと嵌められた。」と復讐を誓うパーペン(元)首相は、ナチス党員でもないのに水面下でヒトラーを首相に任命させるべく画策した(*)。オランダに脱出していたかってのドイツの皇太子、その他もろもろの権力者が大統領に、「ヒトラーを首相に任命してください。」と陳情を挙げる始末だった。1933年1月15日、Lippeという誰も知らない地方議会の選挙で、ナチスがかってない大選挙運動を展開、39.5%の得票率を獲得した。これを見たヒンデンブルクは最後の抵抗を放棄、「ペンキ屋ふぜい。」をビスマルクの椅子に座らせる事にした。
          
1930年1月30日、ヒトラーは首相に任命された。ドクターゲッベルスは感激して、「やっと目的地、ヴィルヘルム通りに到着した。」と書いている。ナチスはこのヒンデンブルクの決断に感謝、広大な地所を大統領に寄贈、ヒンデンブルク一族は将来、金の心配をする必要がなくなった。権力を獲得して「良かった、良かった。」と満足する事なく、ナチス党は"Ermaechtigungsgesetz"を発動するべく褐色革命の準備にかかった。もっともナチスは全権委任法ではなくて、「国民と帝国の困窮を解決する法令」"Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich"と呼んだ。これまた日本がアジア植民地化政策を、「大東亜共栄圏構想」と呼んだのと酷似している。
          
ナチスが国会に提出した全権委任法は、これまでの委任法とはその内容が大きく異なっていた。これまで発動された委任法、例えば第一次大戦中に発動された委任法では、政府は国会にその決定を報告する必要があり、国会は政府の決定を覆す権利も保有していた。ところがこの委任法ではヒトラー政権は独断で国内で有効な条例だけでなく、外国と条約を結ぶ権利を有する。これが憲法に反している場合でも(違反しているのは間違いない)、国会はこれを討議、あるいは批准する権利を失うものであり、独裁制への第一歩だった。

この法案を国会で通すには、2/3の賛成票、全議席数が647議席だから432票が必要である。ナチス党議員は288名なのでまだ144票も足らない。ここでナチスは伝家の宝刀を抜いた。まず81名ものドイツ共産党の国会議員を逮捕させた。SPD議員も似たり寄ったりの運命に遭い、26名が逮捕されるか、逮捕を恐れて逃避中だった。その他にも身の意見を感じて逃走している国会議員もおり、本来は647議席であるのに国会に出席したのは538名であった。もっともこの法案が可決されるには、432票が必要である事には変わらない。しかし同僚の議員が、「身柄の保護の為」と称して逮捕されていくのを見て、「次は我が身。」と考える議員は多かった。この脅迫に現実味を与えるべく、議案が提出されると国会議長(ゲーリング)の命令で、国会内に突撃隊員が呼び込まれて、中央党議員、SPD党議員を取り囲んだ。そしてこの中で投票が行われた。

一体、こんな環境下でどれだけ"Nein"の投票をする勇気のある議員が居るだろう。それでも94議員は「板垣死すとも自由は死せず。」と身の危険を顧みずに"Nein"の投票をした。しかしナチスは444票の賛成(脅迫票)を得て、1933年3月24日、褐色革命は成立した。これが麻生副総理にかかると、「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。」という歴史の解釈になる。大戦中におかしな教科書を読んで歴史を勉強したに違いない。日本の政治家が歴史に弱いのは、何も今回が初めてではない。しかし同氏はこれだけに済まず、この手口を真似るべきだと言う。褐色革命を完遂したナチスは「失地回復」をスローガンに国民を扇動、失地(ダンチヒ回廊)を回復する目的で戦争を誘発、挙句の果てにダンチヒはおろかシュレージェン地域を失った。もし日本がナチスの手口を真似て、「失地回復」などと国民を扇動すると、次回はさらなる国土を失うのがオチだ。

国の運命を決めるのは国民である。甘くて誘惑的な国粋主義的な呼び声に騙されてはならない。「世界で例をみない優秀な民族。」という言葉は、まるで砂糖に群がる蜜蜂のような効果があるので、人気を得たい政治家はこの台詞を使用する。これに、「外敵」を作り上げれば、票が集まる。こうした声に騙されて投票、ペンキが剥がれてから、「信じて投票したのに、騙された。」などというナイーブな言い訳をしても、もはや時遅しである。

(*)
1934年、ヒトラーは邪魔になったSAをSSに粛清させた。犠牲になったのはSAばかりではなく、かってのナチスの敵も同じ運命にあった。シュライヒャー将軍は奥さんと一緒に射殺された。合計、200名を超えるナチスの潜在的脅威が処分されたが、この時の尽力がパーペンの命を救った。戦争中はトルコ大使としてアンカラに滞在、この戦略的に重要なパートナーが(イタリアのように)イギリス側につくのを妨げた。


1933年、3月24日。ドイツはその運命をヒトラーに委ねる。





ダゴベルトを捜せ! (13.06.2012)

犯罪者、それも単独で犯罪を行う輩は頭が良くないので、拳銃を手に入れると、銀行、商店を襲ったりするのが関の山。中には少しは工夫をこらして、有名人やデパートを脅迫する輩もいるが、自ら脅迫金の受け渡しに出向き、御用となる。もし運命のいたずらで、天才が犯罪を行うとどんな展開になるか、これを如実に示したのが、ドイツの犯罪史にその名を残したカールシュタットの脅迫事件、通常、"Fall Dagobert"である。

ノルウエー女性とドイツ人男性の国籍の異なるカップルがベルリンで結婚したが、異国籍間の結婚によくあるように、すぐに関係が壊れて離婚になってしまった。一人で息子を育てる重責に押しつぶされた母親は、子供の面倒を見ないで放ったらかしにした。母親の介護なくして育った少年は、学校に通ってもやる気なし。終日、ぼーっとしている状態だった。両親から価値観を与えられていないので、何をすべきなのか、幼い少年にわかる筈もなかった。さらに運の悪いことに、学校の教師はカリキュラムを消化する事だけに興味を示し、これについてこない生徒の面倒を見るという手間を惜しんで、簡単に生徒を落第させてしまった。こうしてフンケ少年は、2度も落第する羽目になった。

実際にはフンケ少年は、「落第者」ではなく、知能指数が140を超える天才少年だった。学校のカリキュラムは平均的な人間に、それ相応の教育を施す事を主眼にしており、平均を上、あるいは下に超えている人間には適していない。しかし、教師は生徒に点数をつける事しかしないので、少年の優れた才能を見通すことができなかった。結果、フンケ少年は落第者のラベルを押されて、人生が誤った軌道に乗ってしまう。学校をお情けで卒業したフンケ青年は写真家、ペンキ屋、画家、そしてDJといろんな職に就くが、長続きすることはなかった。ペンキ屋として仕事をしていた頃、シンナーを吸ってしまい、その後遺症の平衡感覚の喪失、うつ病に悩まされて、30歳にもなっていないのにもう自殺を考える毎日だった。
          
日々、自殺の方法について考えていると、「死ぬ気になれば、何でもできる。」というおかしな考えが浮かんできた。図書館に行って爆弾の作り方を自習すると、アパートの一室で自作の爆弾を作りあげてしまう。フンケ氏は自作の爆弾をベルリンの有名な高級デパート、KaDeWeに仕掛けると、人の被害が出ないように夜間に爆発させて、大被害を出す。「50万マルク支払わなければ、また爆弾を仕掛ける。」と脅迫、まんまと50万マルクをせしめてしまう。

ドイツで金を使うと紙幣の番号からばれる恐れがあった為、犯罪で大金をかしめた犯罪者がよくするように、氏もフィリピンに飛んで、毎日、豪華な生活を送った。これまで不幸な人生を送ってきたフンケ青年にとって、これまでの人生で唯一、幸せな時期だっただろう。調子に乗ってフィリピン女性と結婚、ドイツに戻ってくると地味な結婚生活を始めた。しかし職がないので、数年も経つとかって手にした脅迫金は底を付き、生活保護で生活する日々だった。他に環境を改善する方策が見つからないので、フンケ氏はまた爆弾作りを始める。今度の表標的はカールシュタットである。先回同様に夜間に爆弾を爆発させた後、デパートに脅迫状を送り、今度はもっと長続きするように100万マルク要求した。

デパートが脅迫に応じる用意がある場合、„Dagobert gruesst seine Neffen“(ダゴベルトから甥へのご挨拶。)と地元の新聞にメッセージを載せるように要求する。これが原因でこの一件は、"Fall Dagobert"と呼ばれるようになる。他の犯罪者と違い、フンケ氏の才能を発揮したのは脅迫金の受け渡し方法。氏は馬鹿ではないから、警察が受け渡し場所を監視している事実を受け入れて、その警察を出し抜く方法を日夜考えた。そこで妙案を思いつく。ベルリン市内を網の目のように走っている電車を利用、氏の合図で金の入ったバックを電車から落とすことにした。この目的のために、またしても図書館に通って勉強、自動落下装置を考案する。流石、IQ140。

金の受け渡し場所にやってきた警察は、そこに置かれているおかしな装置を見て頭をかしげてしまう。装置と一緒にダゴベルトからの手紙が添えてあり、この装置に現金を押し込み、電車の最終車両の後ろに取り付けるように書かれている。大急ぎで警察本部に返ってきた警察はこの装置分析すると、自動落下装置が働きだす時間を予測、現金が落ちる場所に警察官を待機させた。緊張して警察が見守る中、電車が発車、自動落下装置も動き始めて、刻々と時間を刻んでいく。ところが警察の驚いたことに、全く予想していなかった場所でこの落下装置か動いて、現金が路線に落ちてしまう。警察は無線で落下場所を待機している警察官に連絡するが、警察が現場に到着する頃には氏はまんまと現金を手に逃走した後だった。

実は自動落下装置は「おとり」であった。フンケ氏は警察が装置を見て落下場所を推定することを見通して、これとは別に無線で落下装置を稼動できるように組み立ててあったのだ。こうして警察が待機している場所から離れた場所で、装置を稼動させた。ところが今度は警察も馬鹿ではなかった。警察が落下装置に入れたのは新聞紙の切り抜きで、現金ではなかったのだ。新聞紙の切り抜きを手にしたフンケ氏は、怒った。すぐさま自宅で爆弾をこしらえると、ブレーメンまで出張、市内のカールシュタットに爆弾を仕掛けて、夜間に爆破させてしまう。被害総額は数百万マルクに及び、この「仕返し」を誘発させた警察に非難が集中する。

次回、カールシュタットデパートに届いた脅迫状では、脅迫金は140万マルクに「値上げ」されていた。現金の受け渡し場所も明記されていたが、警察は、先回同様に電車からの現金の投げ渡しになると予測、ベルリン中の電車の路線沿いにベルリンの刑事、警察官を総動員して監視させた。警察が指示された場所に行くと、そこには封筒が置かれており、現金受け渡しの場所の指示、それに鍵が入っていた。今回の現金の受け受け渡し場所は公園が指定されており、これには警察も面食らった。指図によると、公園の片隅にボックスが設置されている。警察は同封されている鍵でこれを開け、現金を入れると再度、鍵を閉じるように書かれている。無線で指示を受けた警察は、路線の監視場所を放棄、大挙して公園に向かう。ねずみが一匹も気ずかれないで出て来れないほど厳戒な監視の下、脅迫金を持った警察官が指定された場所に出向くと、そこには大きなボックスがあり、鍵がかかっている。指示された通り鍵でボックスを開け、現金を入れると再び鍵をかけてから、その場を離れた。

今回は警察も「新兵器」を導入していた。現金には探知機が備え付けてあり、現金が動き出すと、警察にこれが伝わる仕組みになっていた。暗闇で監視が難しい状況下、探知機が動きだせば、警察が隠れ場からこのボックスに突進して、ダゴベルトを現行犯で逮捕できる手筈だった。緊張して警察が見守る中、数時間後に探知機が短期間作動した。しかし現場を監視している警察官の報告では、「誰もボックスに近づいていない。」という。そこでこの作動は誤作動を判断されて、ダゴベルトが箱を空けに来るのを待っていた。警察は明け方まで待機していたが、結局、ダゴベルトが現れることはなかった。警察がボックスを開けて現金を確認しようとすると目が点になった。ボックスの底に大穴が開いていたのである。

実はこのボックス、マンホールの上に置かていた。フンケ氏は現金の受けたし時間を過ぎてから、排水溝を登り、箱の底を空けて「現金」を確認したが、またしても新聞紙の切り抜きだったので、その場に現金を残して逃走したのだった。これが報道されると、何度も警察を出し抜くダゴベルトは庶民のヒーローになった。逆に警察は笑い物の対象になり、最後には、「ダゴベルトは警察内部の人間だから、毎回、捕まらないで逃げることができた。」などと報道されるに到った。これに追いうちをかけるように、怒ったダゴベルトが仕掛けた爆弾が、初めて日中に爆破、これ以上をダゴベルトに新聞紙を渡すと、人命に危険が出ることが懸念された。こうして警察は次回は本当に現金を渡すことを決定した。

今回、現金の引渡し場所に指定されたのは、市外の廃線になった路線上。線路の上にはダゴベルトが自作したミニ電車が置かれており、警察が電車の荷台に現金を乗せると、電車は無線で信号を受けて動き出した。当然、警察は電車の後を追いかけるが、夜間だったため、よく前が見えない。さらに警察が指を加えて現金が消えていくのを見守るわけがないとわかっていたダゴベルトはあちこちにワイヤーの罠を仕掛けており、警察がこれにひっかかると、転倒するだけではなく花火が点火されて警察の居場所がわかるようになっていた。ベトコンを上回る手筈のよさである。案の定、現金を追いかける警察は何度も路線上で転倒、暗闇で先が見えないため、現金を乗せた電車は視野から消えてしまった。ところが現金を乗せた電車は、フンケ氏まであと十メートルという場所で脱線してしまう。隠れ場所から飛び出して現金を拾うべきか、フンケ氏は一瞬考えたが、また新聞紙の切り抜きである可能性が高いので、敢えて危険を犯さず、逃亡する事にした。ところが翌日新聞で、「ダゴベルト、あと一歩の所で140万マルクを逃す!」と脱線した電車と現金が写真入りで報道されて、本当に現金が乗っていた事を知り、歯軋りした。

ここでダゴベルトは致命的な失敗を犯す。生活保護を受けながらの犯罪だったので、資金が底を着いてしまった。金欠のため、これまでの慎重な前準備をしないで、公衆電話から警察に電話を行う。せめて市外から電話をすればよかったのだが、悲しいかな、市外まで移動する移動手段にも欠けていた。ベルリンの警察は人員を総動員して、ベルリン中の公衆電話を監視させる人海戦術に出た。そんな事は知らないフンケ氏は公衆電話から警察に現金の引き渡しを指示、電話ボックスを出た所で警察に取り囲まれてしまう。知能犯だけあって素早く状況判断、無駄な抵抗などはせず、"Ich bin Dagobert."とその場で正体を明かした。

公判では9年の実刑判決を受けたが、フンケ氏にとってこの刑務所生活は、いい転換点となった。刑期に入る前の健康チェックでシンナーによる障害が変名、病院で治療を受けて健康を回復、鬱病を克服した。さらには刑務所で行われた知能テストでかってない高得点を獲得、フンケ氏の本当の才能が刑務所で始めて認識される。これが氏にも一種の自信を与えたようだ。刑務所で自伝を書くなどの独創的な獄中生活を送り、6年後には模範囚として釈放された。釈放後は風刺画家として出版社に就職、爆弾で引き起こした損害をデパートに払いながら、それでも安定して生活を送っている。氏の才能が学校で認められていれば、もっと違った人生になっていただろう。

          


ドイツ一の知能犯、"Dagobert"、フンケ氏。





最後のドイツ兵 (11.05.2012)

最後の日本兵と言えば小野田少尉が有名だが、実際には中国やタイにも現地人になって生活を続け日本兵が居た。自分の人生を送りたいのに、有無を言わさず兵隊に徴収されて、猛訓練。これが終わると、戦地に送られて「国の為に死んで来い。」というのである。食うや食わずの兵隊生活を続け、やっと戦争が終わった際、「人生を奪った日本なんかに帰りたくない。」と決心した心境はよく理解できる。日本同様に「負け組み」だったドイツにも、同じようにドイツに帰国しないでアメリカやロシアに留まったドイツ兵も多い。一番顕著な例は、NASAにてロケットプログラムを率いたフォン ブラウン博士だ。「ブラウン博士は兵隊ではなく、科学者では。」と思われているケースが多いが、フォン ブラウンはドイツ軍の将校で、それもよりによってSSの少佐であった。

ドイツ人は日本人と異なり合理的なので、「玉砕せよ。」と総統命令が届いても、「やなこった。」と降参する。玉砕命令が出たスターリングラードでドイツ軍は降伏したし、「総統を救うため、ベルリンの包囲網を突破せよ。」との自殺命令を受信した将軍は、「気の狂った独裁者を救う為に、自分の指揮下にある兵隊の命は無駄にしない。」と、ヒトラーを見捨てて西側に移動、英国軍に降伏した。この為、ドイツ兵は戦争が終わってもジャングルに隠れて抗戦を続けるようなことはしない。戦争が終われば任務中でもさっさと降参して、早く本国に帰国しようとする。いい例が日本に戦争物資を運んでいた潜水艦U-234だ。乗船していた日本海軍の将官の嘆願にも関わらず、無線にて米軍に降伏、乗船していた日本軍将校は名誉を救うため、自殺した。

ところが歴史の気まぐれで、戦争が終わって40年も逃げ続けていたドイツ兵が居た。上述の最後の日本兵が29年の逃亡生活だから、さらにその上を行く。何故、合理的なドイツ人が40年もの長きに渡って逃亡生活を続ける事になったのか。又、いかにして40年もの長きに渡って、FBIの指名手配にもかかわらず逃亡する事ができたのか。普段は知られる事のない、一介の兵士の悲運な運命を紹介しよう。
          
本人は全く望んでいなかったのに、最後のドイツ兵となったのは、Georg Gaertner。ロンメルのアフリカ派遣軍DAK(Deutsches Afrikakorps)、に従軍した最年少の兵卒で、運よく1943年に捕虜となり、米国に移送されて捕虜収容所で終戦を迎えた。ゲルトナーは、ドイツ兵は本国ドイツに送還されると聞いて真っ青になった。ゲルトナーはソビエトに占領されたシュレージエンの出身である。戦争宣伝も幾分残っていたのだろう、米軍を信用していないゲルトナーは、本国送還されるとソビエト軍の捕虜収容所に送り込まれると勘違いしたのである。そこで捕虜の本国に送還が始まる前に、捕虜収容所から脱走してしまう。悲運なことに、ドイツに送還されるドイツ兵捕虜は西ドイツに到着することになっていたので、この逃亡は全く意味がなかった。しかし米軍がこの情報をドイツ兵に伝えなかった為、ソビエトの捕虜収容所での飢餓生活に怯えたゲルトナーは、逃亡することになったのである。

たかが一介の兵卒に過ぎないゲルトナーは、ここで本人の知らなかった特技を発揮する。米国の捕虜収容所からの逃亡に成功したドイツ兵はゲルトナーだけでなく、他にもいた。しかし言葉の問題、逃亡資金がないので電車にも乗れず、皆、捕まってしまった。ところがゲルトナーだけは、逃げ続けた。農園での収穫作業員などの日雇いの仕事に就いて、寝床と生活費を確保した。幼少の頃からスキーとテニスが得意だったのも幸いした。スキーのインストラクターの職を得ると、ネバダ州で落ち着いてしまった。ところが1953年に大雪で電車が脱線事故を起こしてしまう。たまたま近くに住んでいたゲルトナーは救援に駆けつけて、電車に閉じ込められた乗客を救出する。この救出活動を聞いた新聞社が、「アメリカのヒーロー」の取材を始めると、ゲルトナーは真っ青になった。「アメリカのヒーロー」は、実際にはアメリカ人ではなく、FBIから指名手配を受けている逃亡中の(元)ドイツ兵である。

新聞に顔写真が載る前にゲルトナーは大西洋岸に逃亡、今度はテニスのインストラクターとして職に就いた。仕事で知り合ったアメリカ人女性と結婚して、正式にアメリカ人となった。スパイの英才教育を受けたソビエトのスパイだって、孤立無援でここまで逃亡生活を続ける事はできないだろうから、ゲルトナーにはスパイの才能があったに違いない。しかしその代償は高いものだった。玄関に訪問者が来る度に、「ばれた!」と真っ青になった。車のブレーキ音を聞くと、驚いて立ち上がり、窓から外の様子を伺う行動は、奥さんに「何かがおかしい。」と思わせる事になったが、ゲルトナーは頑として口を割ろうとしなかった。

逃亡生活から40年目、結婚生活20年目、1985年に奥さんは終にゲルトナーに真実を語るように説得することに成功する。長年一緒に暮らしてきた旦那が、実は脱走中のドイツ兵であった事に奥さんはかなり驚いた。奥さんに真実を明かして勇気が出たのだろう、ゲルトナーは自首することにした。記者を集めた席上で、"Ich bin Hitlers letzter Soldat"「私はヒトラーの最後の兵士である。」と涙ながらに語り、米国政府に恩赦を乞うた。米国政府は珍しく殊勝な態度を示してゲルトナーを恩赦するだけでなく、正式にアメリカの滞在権を与え、2009年には市民権を得た。

40年もの逃亡生活を余儀なくされたのは、ゲルトナーの誤解が原因ではあったが、その誤解の原因になったのはヒトラーが引き起こした戦争である。数百万もの戦争の犠牲者は勿論だが、戦争が終わっても40年もの逃亡生活も筆舌に尽きる辛苦である。このような災いが再度繰り返される事がないように、日本のメデイアは権力者がおかしな決定をしないように、もっと批判的に監視、報道すべきだ。何処かの市長が、「南京虐殺はなかった。」などと平然と言えるような環境があってはならない。そんな風潮を野放しにしていると、ドイツが第一次大戦の失敗で懲りないで、第二次大戦を起こしたように、また日本も間違いを犯しかねない。


指名手配書。



  
刎頚の友 (05.08.2011)

どんなに潔白な人間でも、長く政権の座に居座ると腐敗してくる。自身を過大評価して、法の外、あるいは法の上にある存在だと勘違いするようになる。すると最初は躊躇しながら法を破り、次第にこれが当たり前になってくる。政権を無くした指導者が、その後、汚職で検察に挙げられてしまう事が多いが、これにはこうした背景がある。民主主義が定着している国では、こうした弊害を最小限度に抑える為、政権に就くことができる年数を8年、あるいは10年と限定している。あのロシアだって大統領は継続して10年しか政権に就けないのに、何故か、ドイツではこのテーマに関して法律上の制限がない。もっとも通常のケースでは、同じ政党が8年も政権を担当していると国民に愛想を尽かされて、自動的に政権が交代するが、稀に好景気などに助けられて長期政権が誕生する事がある。そしてこの長期政権が破綻した際の衝撃(弊害)は、その政権の年数に比例して、とても大きなものとなる。

ドイツの長期政権と言えば、アデナウワー政権の14年が未だに記録を保持している。これに続くのが(ヒトラー政権の13年を入れなければ)、コール首相の12年である。ヒトラー政権が破綻した際はドイツまで破綻したが、アデナウワー政権が破綻した際は、大きな弊害は表面化してこなかった。これは何も汚職がなかったわけではなく、汚職が日常茶飯事だった為、誰も遭えて他人を指差してその汚職を指摘する必要性を感じなかっただけの事。そんな事をすれば、「明日は我が身」である。多分、ここで「毒抜き」をしていれば、コール政権破綻の際の衝撃はそれほど大きなものにならなかったろうが、クライマックス(破綻)はコール政権の破綻まで持ち越される事になった。

ドイツの三河地方と呼ばれるRheinland-Pfalz州のCDU内でめきめきと頭角を現してきたのが、すでに1946年、すなわち戦後すぐに党員になった古参党員のヘルムート コール氏だ。コール氏は巧みな戦術を駆使して1966年にはCDUの地方支部長に就任、1969年の州選挙に勝利して州知事に就任した。4年後の1973年には政権を取り損ねたバーツエル氏を党首の座から蹴落として、党首に就任したから早い出生だ。1980年にやってくる総選挙に控えて頼りになる右腕を必要と感じたコール氏は、勤勉で知られるシュバーベンの出身で、税理士及び法律家の国会試験に合格していた有能なSchaeuble氏を選挙戦のマネージャーに抜擢する。ところが1980年の総選挙では、まるで徳川家康が豊臣秀吉に「お先どうぞ。」とやったように、バイエルン州のライバル、シュトラウスに「お先どうぞ」とやり、人気のあったシュミット首相にシュトラウスが選挙で負ける事を密かに期待した。果たしてコール氏の企み通り、シュトラウスが敗北を喫すると、コールは自身の手を汚す事なく、シュトラウスを「始末」する事に成功した。
          
戦術の話で恐縮だが、敵(陣地)を攻撃する際、レコン(索敵)を行い防御の弱いところを見つけ、ここに主攻撃を向ける。日本軍のように索敵も行わないで、突撃ラッパで正面攻撃するなどもっての他である。防護の弱いところは、ドイツ語で言う"die Flanke"(端)で、部隊と部隊の継ぎ目、あるいは防御線の端を指す。ここを突破、あるいは迂回して敵の後方に進出、敵を包囲して一網打尽にするのがもっとも効率が良く、かつ成功の確率が高いので、戦術の定石となっている。ドイツ参謀本部は第二次大戦中この戦術を適用、少ない部隊で最大の効果を挙げる事に成功した。不思議なことに、(成功する)ドイツ人の多くは、この戦術を(防衛大学に通っていないのに)備えているようである。コール氏は党内の邪魔者を排除すると、敵、すなわちシュミット陣営の弱点("die Flanke")探しを開始した。当時のドイツはソビエトのSS20核弾頭ミサイルに対抗すべく、欧州内での核ミサイル配備の導入が討議されていた。国民の過半数はドイツ国内の核配備を拒絶したが、シュミット首相は政治の均衡を保つために核配備が必要と判断、核ミサイル導入を決断した。コール氏にとってこれ以上、都合のいい時期はなかった。シュミット首相の判断は、国民の間だけでなくSPD内部で大いに揉めていたが、コール氏は正面(SPD)攻撃を行わず、これを迂回する戦術に出た。すなわちコール氏が主攻撃目標にしたのはシュミット陣営の die Flanke、SPDと連立政権を組んでいるFDPであった。

コール氏は当時のFDPの党首であり外務大臣だったゲンシャー氏に、「CDU政権下でも同様の待遇。」を約束して、その見返りに寝返りを要求した。こうして1982年にシュミット政権への不信投票が行われると過半数が信任を拒否、コール氏は選挙で勝たないで首相に就任してしまった。これほど効率のよい戦術はない。コール首相は右腕に成長していたショイブレ氏を首相官邸の長官に任命して、その労に報いた。ショイブレ氏は「いかなる手段を使ってもトップに立つ者を守らなければならない。」という今のドイツでは稀な信念を抱いており、コール首相の為に「いろんな面倒」を見た。ここでも紹介したフリック財閥からの政治献金が明るみにでた際は、警察に検挙された社長のブラウヒッチュ氏を「都合の悪いことは思い出さないように」説得、ブラウヒッチュ氏は裁判でも贈賄を認めたが、「誰に送ったか覚えていない。」と証言、一人で罪をかぶって牢屋に送られた。コール首相はその労に報いてショイブレ氏を内務大臣に任命して、検察からの攻撃が始まる前にこれを見事に潰した。同時にショイブレ氏を後継者に指名、氏がトップに立つのは時間の問題であるという印象を与えた。

ところがコール首相は1994年の総選挙に再度、立候補すると前言を翻して、ショイブレ氏をがっかりさせた。この頃からドイツ経済は次第に不景気に陥り、東ドイツ合併の財政負担にあえぎだした。州知事はコール首相に退陣を要求したが、コール首相はこれを拒否するばかりではなく、あきからに再選される可能性がないのに1998年の総選挙でも再度、首相に立候補するという傲慢さを示した。案の定、選挙で敗北を喫したコール首相はよくやく党首の地位をショイブレ氏に譲った。13年ぶりに政権に返り咲いたSPDのシュレーダー政権は、ドイツ経済を再び起動に乗せるべくあらゆる手段を尽くしたが、成功しなかった。俗に言う「構造上の問題。」である。ドイツ国内の人件費は80年代の好景気で上昇を続けた為、ドイツ製品の価格は上昇、隣国の製品と比べて値段が高く、国際競争力を失っていた。一向に景気が回復しないのでシュレーダー政権のドイツ国民からの支持率は4年間で急降下、2002年の総選挙ではショイブレ氏が首相に就任するのは確実だと思われた。ところがここでコール政権破綻のツケが回ってきた。

新品よりも高い値段で中古の装甲車をサウジアラビアに売り飛ばしたドイツの武器商人が、その報酬に(当時政権にあった)コール政権にたんまりと政治献金を送っていたが(これは合法)、CDUのSchatzmeister(党内会計部長)はこれを税務署に申告せず(これは違法)、その金を(勝ち目のない)選挙資金に充てた。(詳細はこちら Catch Me, if You can.) これが新聞にスッパ抜かれると、政府与党は人気を落としていた時期だけあって、この「棚から牡丹餅」に狂喜した。逆にショイブレ氏は2002年の総選挙の負担にならないように、この汚職スキャンダルの早期解明に政治生命賭けた。ところがそんな事に全く関心を見せなかったのが、(元)コール首相だ。コール氏は「誰から金をもらったか、それは言わない。」と堂々と公言して、ショイブレ氏に真っ向から抵抗した。これ以上の公開の場でのスキャンダルを避けるため、かっての刎頚の友は"Unter Vier Augen"(二人だけ)で会合した。ここでコール(元)首相は、「お前は何様のつもりだ!」とショイブレ氏に食って掛かり、「俺が検察に挙げられる事になったら、お前も一緒だ。」と一向に聞く耳を持っていなかった。

コール氏の凄いのは、この脅しを言葉だけで終わらせないで、本当に実行した事。氏はここでも正面攻撃をかけないで、ショイブレ氏の"Flanke"を探し始めた。氏は党の会計部長を陰謀仲間に引き入れると、ショイブレ氏が受けた「政治献金」の有無について尋ねた。するとこの部長、党首のショイブレ氏をあっさりと裏切って、「ショイブレ氏は武器商人から10万ユーロもらったが、これは秘密献金なので税務署に報告していない。」と、党首の首を売り飛ばした。その後のコール氏の行動がまた凄い。氏の音頭で極秘の「ショイブレ追い出しパーテイー」を開き、ここに仲のいいジャーナリストを招待した。コール氏はシャンパンを飲みながらジャーナリストにショイブレ氏が受け取った政権献金の詳細を伝え、翌週の週刊誌にスクープとして報道される記事を期待してほくそ笑んだ。この期待は裏切られなかった。この週刊誌が販売されると、政府は次々と降り注ぐ牡丹餅に感激した。国会で政治献金について尋ねられてショイブレ氏はこれを否定したが、これを信じる者は居なかった。

ショーダウンは2000年1月18日。コール元首相が献金者の名前を明かせばまだ自身の政治生命が救われると淡い希望をいただいていたショイブレ氏は、コール氏と「最後の会談」を行った。しかしコール氏はショイブレ氏の要求を頭から跳ね除けて、「今度はお前が辞任する番だ。」と、自ら選んだ後継者に引導を渡した。この時のショイブレ氏の怒りは、すさまじい物だったらしい。コール氏は後のインタビューで、「この時ほど憎しみを感じたことは、後にも先にもなかった。」と、語っている。1990年にショイブレ氏が精神異常者に銃撃されて重症を負った際、このニュースを聞いたコール(当時の)首相は涙を流して悲しんだと言われているが、月日が流れれば、人間関係とはよくも変わるものだ。

四面楚歌の状況に抜け道を見出せないショイブレ氏は、2000年2月に党首の地位から辞任した。こうして当時、幹事長だったメルケル女史が、誰も予想していなかったことに、党首に就任する事となった。その他に政治献金問題に犯されていない党幹部が居なかったのだ。時は流れて2010年。年老いてかなりもうろくしてきたコール氏は、犯罪者が人生の終わりによく後悔するように、自身の行動を後悔し始めた。回想録を出版した際に与えた記者会見で、ショイブレ氏に仲直りを提唱したが、「コールとはもう関係を持ちたくない。」と、あっけなくこの申し出を蹴った。後悔、時遅しである。コール氏は良心の呵責(まだ良心が残っていれば)に責められながら、残りの人生を送っている。


90年代初頭。まだ仲が良かったCDU首脳陣。









ポルシェ Vs. ピエヒ(19.07.2011)

肌の色、宗教の違いなどは頻繁に差別の原因となるが、同じ国民、同じ肌の色でも、名前(性)が異なるだけで、差別される事がある。そのモデルケースとして紹介するのが、著名なPorsche一族のケース。日本でもポルシェの名前はよく知られているが、その裏話は知られていない。そこで今回はポルシェ一族の抗争について紹介してみたい。

詳細に入る前にいい機会なので、まずは簡単にポルシェの生い立ちを紹介してみよう。ポルシェ一族は、当時チェコ領内に住むドイツ少数民族に属していた。1875年に生まれたFerdinand Porscheは幼少の頃から技術に関心を示して、義務教育を終えるとウイーン工学大学の授業にモグリで出席するなどして、「独学」で知識を広めていった。最初に就職したのがウイーンにある電力会社。ここでポルシェは世界で最初の電気自動車を開発、1900年の万博では大きな注目を受けた。この電気自動車の大きな欠点はそのバッテリー。鉛の巨大なバッテリーのため、重量が1.7トンもあり、航続距離は60kmしかなかった。この短所をポルシェはダイムラーの内燃エンジンを搭載する事により解決、なんと1902年に世界初のハイブリッドカーを発明した。100年後、よりによって日本企業がこの技術で車を開発したのは、ドイツ人は面目丸潰れだった。その後、ポルシェはダイムラーに転職、有名なSタイプを開発、自動車メーカーとしてのダイムラーの名前を不動のものにした。

深刻化する不況の中、ダイムラーを首になったポルシェはシュトッツガルトに設計事務所を開き、ここで他社からの設計を受注、同時に独自の自動車の開発に着手した。この会社は70%がポルシェ自身の所属、15%は会社の弁護士であり、娘と結婚して義理の息子となったアントン ピエヒ氏が所属、残りの15%はある企業化の所属となった。実はこれが後々のポルシェ一族の内紛の原因になるのだが、これについては後述。Auto Unionという今では存在していない自動車メーカーからレースカーの設計の受注を受けたポルシェは、タイプDを設計、歴史に残る大成果を収めて、設計家としてのポルシェの名前を不動の物とした。このポルシェに注目したのが、当時、政権を獲得したばかりのナチス。ヒトラーはポルシェに1000ライヒスマルクで買える車、KdF-Wagen(後のビートル)の設計を依頼した。ところがドイツの自動車業界は、このKdF-Wagenの製造を「値段が安くて儲からない。」と拒否、ヒトラーは労働大臣に国営の自動車メーカーの創設を命じ、誕生したのがVolkswagenwerk、現在のフォルクスワーゲン社である。
          
戦後、ポルシェはナチスに協力した廉で2年間拘置されるのが、その後の裁判で無罪判決を勝ち取り、職業上の自由を獲得した。ただしポルシェ設計事務所の運営は、息子のフェリーポルシェに移っていた。氏が最初に開発したのがこれまた有名なモデル356で、今ではクラッシクカーとして一財産の価値がある。戦後のドイツでは経済の復興が早く、ポルシェが戦争前に設計したKdF-Wagenの製造が、(戦争終結までに製造された2万台を除けば)その設計から10年以上経ってよくやく始まることになった。その際、名前がKdF-Wagenではマズイので、ビートル(ドイツ語でケーファー)と改名された。問題はこの車のパテントの所属。設計したのはポルシェ設計事務所なので、当然、パテントの権利がある。下手をすれば、ポルシェ一族は、フォルクスワーゲン社の所有権を主張できるかもしれない。しかしポルシェは過度な要求をする事なく、0.1%のパテント料にて妥協、その変わりに引き続き設計の依頼を受けることでパテントの帰属権は決着した。こうした背景があり、ポルシェがデザイン、フォルクスワーゲン社が製造したフォルクスワーゲン ポルシェが存在している。1949年にはイギリス占領区にあったフォルクスワーゲン社は新しく誕生したニーダーザクセン州に返還されて、今度は州営の自動車会社となった。

ポルシェは遺言にて、優秀な設計家である事を証明した長男に会社を譲らないで、その子供達にある程度均等に分割した。長男はポルシェ設計事務所を、長女のルイーゼ ポルシェ(結婚後、ピエヒと改名)にはオーストリアにおけるポルシェの独占販売権を、三男のヴォルフガンク ポルシェはポルシェ自動車工場を相続する事になったが、これには長男が大いに不満で、これが家族紛争の始まりとなる。ルイーゼ ピエヒには3人の息子が居たが、次男は叔父の名前、フェルディナントを受け継いだだけでなく、技術系に秀でた息子だった。フェルディナント ピエヒはヴォルフガンク ポルシェが引き継いだポルシェ自動車工場で勤務、ある程度独断でルマンの24時間レースに参加する事を決定、レーシングカーの設計に取り掛かった。当時は家族経営の小さな町工場に過ぎないポルシェで、大きな自動車レースに参加する資金的な余裕はなく、このピエヒ氏の勝手な行動はポルシェ一族の不興を買った。ところが限られた予算を優れた設計でカバー、ピエヒ氏の設計したポルシェはルマンで快勝、これがきっけかとなりポルシェはスポーツカーというイメージが始めて定着した。

日本でも「出る釘は打たれる。」と言われる通り、ピエヒ氏のこの成功は、ポルシェ社内で賛嘆される代わりに、争いの種になった。ピエヒ氏は社内で相応の身分と扱いを要求したが、ポルシェ一族はピエヒ氏の要求を回避、会社を株式会社にして外部から社長を招き、ピエヒ氏の影響力を遮断する手立てに出た。この扱いに怒ったピエヒ氏はポルシェを退職、VW(フォルクスワーゲン社)に就職した。厄介者を追い払ったポルシェだが、本当の危機はこれからやってきた。製造台数が少なく、生産効率の悪いポルシェの儲けは大きくなかったが、米国での好調な売れ行きと高い米ドルに支えられて会社はかろうじて黒字を出していた。しかし80年代になって米ドルが暴落すると、車の販売打数も減少した事も手伝って会社は赤字経営、90年代になると会社は破産の寸前にまで状況が悪化した。ここで社長に呼ばれたのが有名なWiedeking氏だ。氏は日本の自動車工場で見てきたノウハウをポルシェに導入、部品の在庫を大幅にカットする事で経費を削減、ポルシェを再び起動に載せた。さらには古くなったモデルに新しいポルシェデザインを施す事で、ポルシェの販売台数を飛躍的に伸ばした。会社の借金が減ると、ヴィディキン氏はは大きな野望に取り掛かる。それはVW社の買収である。元々、ポルシェ一族の配下にあった銘柄をポルシェの名前の下に統合するこのプランは、会社の取締役会長のヴォルフガンク ポルシェ氏は言うに及ばず、その他のポルシェ一族の賛同を得た。ところがここでこの統合に唯一、「ちょっと待った!」と反対したのは、あのピエヒ氏であった。

ピエヒ氏はポルシェを退職後、VW社に就職、当時は人気のなかった銘柄、アウデイの開発、販売を任せられた。今では誰でも知っているドイツの高級自動車のひとつアウデイは、ピエヒ氏が手塩にかけて育てた銘柄である。VW社では名前によって差別される事がなく、出世は実績次第。実際にVW社は氏の功績を認めて、ピエヒ氏は1993年に社長に就任した。ところがよりによってあのポルシェが、VW社の買収を始めたことは、ピエヒ氏には許せる行為ではなかった。しかし、敵のポルシェは順調な車の売れ行きのお陰で、順風満帆、銀行の支援を受けて株の買収に乗り出したが、当面は指をくわえてこれを看視するしか手立てがなかった。ポルシャが25%の株を支配してVW社の筆頭株主になると、ポルシェ一族をVW社の取締役会に受け入れる羽目になり、ポルシェ一族はゆっくりだが着実に外堀を埋めて、目標に近づいてきた。ここでポルシェ一族の会議が開かれて、勿論、ピエヒ氏も出席して、一族内でVW社の買収を「合意」させようとした。勿論、ピエヒ氏はこれに抵抗、会議は物別れに終わった。ポルシェはこれをきっかけに敵対買収に乗り出した。多分、ポルシェのこの大胆なプランは、普通の状況下では、成功していただろう。ところがここで80年に一度の経済危機がやってきた。

軒並み株価が暴落する中、ポルシェはこれを幸いと、VW社の株価の買収に出た。市場に出回っている数少ないVW社の株に大量注文が来たため、株価は一株1000ユーロを超えるまでに高騰した。しかし、3日後には再び300ユーロ程度にまで落下してきた。詳しい経緯は不明だが、ポルシェはこの株価の大幅推移で大損をした。銀行から借りた金で買収を行っていた為、会社の負債金額が120〜130億ユーロにまで増加した。ここまで負債額が増加すると、幾ら商売で儲けても、その利子の支払いだけで、会社は赤字経営になる。これまで徳川家康のような忍耐力を示したピエヒ氏は「いざ、鎌倉!」と、敵の戦術を逆手にとってポルシェの買収、つまりピエヒ氏によるポルシェの買収を申し出た。借金で溺れかかっているポルシェに他の選択肢はなく、ポルシェはこうしてピエヒ氏の軍門に下った。皮肉なことにポルシェ一族の夢、初代ポルシェの傘下にあった銘柄を統合する、は、ピエヒ一族によってその目標に達する事になった。

経済評論家は、この勝敗の行方はピエヒ氏とヴォルフガンク ポルシェ氏の教育に起因していると言う。ピエヒ氏は一般人と同じ上に義務教育を受け、大学を卒業、その人生は文字通り、叩き上げの人生だった。一方のポルシェ氏は、「社長なんだから、そんなに無理をする事はない。」と、一部の日本人にも人気のバルドルフ学校に通い、競争や成果を出す圧力にさらされる事がなかった。この教育に起因する決断力の弱さが、ポルシェ一族の敗因になったという。具体的に言えば、何故、実績を上げたピエヒ氏を株式会社の社長に迎えなかったのか。他のポルシェ一族の反対に遭うのを恐れるばかりに周囲の意見に合わせて、みすみす有能な人材を敵陣に追いやってしまった。そして結局はこれが致命的な誤りとなった。指導者たるもの、周囲の意見に耳を傾けても、決断は自身の判断で下すべきであった。無配の陸軍を擁していながらクレオパトラの甘言にコロリと翻意されて、海戦に決定、敗北を喫したアントニウスのように、指導者が決断を他人の意見に合わせてうまく行った例はあまり多くない。


自動車業界のドクターファウスト、ピエヒ氏。









スターリングラート(11.11.2010)

1942年は太平洋戦線での日本海軍のミッドウエー会戦の大敗北に続き、東部戦線でもドイツ軍がスターリングラートにて大敗を喫し、戦局が枢軸国側に決定的に悪化した年だ。前者については日本語の著作が多いので、何故、海軍がミッドウエー会戦という無謀な作戦計画を承認したのか、そして何が原因で敗北を喫したのか、比較的簡単に知ることができる。しかし、スターリングラートのドイツ軍の敗北は、そう簡単にはいかない。「まずい事は全部、死人のせいにしよう。」という風潮が戦後のドイツで広まり、すべてヒトラーの責任になってしまっているからだ。勿論、最高司令官であったヒトラーの戦術的誤判断によりこの敗北が招来されたので、ヒトラーに責任があるのは間違いないが、どうしてこの致命的な戦術的誤判断を下す事になったのか、その理由、背景などをここで紹介してみたい。

1940年にヒトラーは陸軍参謀本部の要求を聞き入れて、南に進軍する変わりに、モスクワへ攻撃の矛境を変えた。この攻撃が破局に終わると、ドイツ軍は大量の人員、戦争資材を失った。この失った装備を再生産するだけなく、(米国の参戦により)戦争の長期化に備えて、石油は言うに及ばず、石炭、マンガン、鉄鉱石などの天然資源を確保する事が至上課題となった。日本軍がこうした天然資源を求めてインドネシア方面に南下したように、ドイツ軍も南下して資源を確保する必要に迫られた。これを1942年の夏季攻勢の目標として、その火蓋が切って落とされた。もっとも最初に攻撃をしかけてきたのはソビエト軍。ドイツ軍が攻勢の準備をしているのが明らかになると、「どうぞ。」と、首を据えて待つほど愚かな事はない。テイモシェンコ元帥は、5月12日、64万人もの大軍でもって、ドイツ軍の攻撃準備が完了する前に、ドイツ軍の橋頭堡に向かってなだれ込んできた。これにはドイツ軍の将官は虚を衝かれた。前線を突破されて補給所を奪われてしまうと、1942年の攻勢は不可能になる為、「攻勢準備を放棄して、防御体制に移るべきだ。」と、言い出した。

ヒトラーは去年、陸軍の言う事に耳をかして手痛い敗北を負った経験からか、この提案を拒否。攻撃予定日を早めて、5月17日に攻撃を開始するように命じた。最初の3日間はドイツ軍の前線が破られる危険にさらされたが、クライスト将軍は前進してきた敵の側面(die Flanke)を攻撃、退路(補給路)を断ち、敵軍を丸ごと一気に包囲してしまった。この戦闘はドイツ(軍)の歴史上、最大の勝利となり、チャルコフの戦闘(Die Schlacht bei Charkow)としてその名を残している。皮肉な事にこの戦闘が、実はスターリングラードの「原因」となるのだが、それについては後述。ドイツ軍総司令部はこの名だたる勝利に浮かれてしまい、「ソビエト軍の予備はこれにて費えた。」と判断、第六軍の側面を守護する予定だった第四軍を南に前進させて、ロストフを奪取後、コーカサスに向けて進撃させて、ソビエトの油田を奪う事にした。こうして第六軍は第四軍の代わりに頼りにならないルーマニア軍を側面防御に従えて、ヴォルガ河に向けて前進を開始した。そしてこのヴォルガ河の河畔にある町が、スターリングラートだった。
          
道路、鉄道網の整備されていないロシアでは、水路網は生命線だった。これを利用して初めて大量の物資、武器弾薬の移送が可能になった。さらにヴォルガ河は、米軍がカスピ海まで運んできた戦略物資の輸送路でもあった。マイコップ及びコーカサス地域の油田(バクー)をソビエトから奪い取り、ソビエト軍の生命線であるヴォルガ河(ベトナム戦争時のホーチミンルートのようなもの。)を手中に収まれば、米国からの補助はUボート攻撃にさらされる危険な北海ルートしかなくなる。さらにはソビエト軍はいくら戦車を製造しても、これを動かす石油(正確にはデイーゼル)に欠け、作戦活動が大いに制限される。だからドイツ軍がヴォルガ河に向けて前進したのは意味があったが、何故、よりによってスターリングラートだったのか。ヴォルガ河畔には他の町もあったのに、よりによってスターリングラートを攻略目標にした事、さらにこの町を迂回しないで危険な市街戦で奪取しようとした事は、合理的なドイツ人らしくない。「この町があのスターリンの名前を冠していた為、ヒトラーはをどうしてもこの町を奪取しようとした。」という説は、あながち間違いではないかもしれない。

8月23日に開始されたドイツ軍のスターリングラート攻勢は、修理中の戦車を含めても100台にも達しない微弱な戦力だった為、遅々として進まなかった。スターリンから政治局員として派遣されたフルシチョフ(後の書記長)が、「一歩たりとも後退を許さず。」と厳命、ソビエト兵は政治委員に処刑されるのを恐れて、文字通り、死ぬまで戦った。やっと11月になって頑固に防御されていた駅、製鉄工場("Roter Oktober")を収入に収めると、スターリングラートの90%はドイツ軍の手中に落ち、残るはわずか数百メートルのヴォルガ河畔の縦細い地域、それに市の北端だけだった。だからヒトラーが11月の演説で、「スターリングラードは獲ったも同然。手のひらほどの地域が残っているに過ぎない。」とやったのは、それほど誇張ではなかった。が、ここでソビエト軍は、(ヒトラーの言う)下等人種には有り得ない才能、「敵の戦術から学ぶ」を備えている事を証明することになる。

ノモンハン事件で日本軍をぐうの音も出ないほど叩いて名を上げ、1941年のドイツ軍の攻撃前、ウクライナ放棄をスターリンに上奏した為、嫌われて、陥落間際のレニングラード、つまり「死の任務」に送られたが、意外や意外、ドイツ軍の包囲を頑強に拒んだ為、スターリンにモスクワ防衛任務に呼び戻され、ここでも見事にモスクワを防衛したジューコフ将軍が、スターリングラート戦線に派遣されてきたのである。チャルコフの戦闘で前任者、テイモシェンコ元帥が犯した間違い(側面防御を怠る)、言い換えれば、ドイツ軍が用いた戦術(前進してきた敵軍の側面を攻撃して退路を断つ。)を学んだジューコフ将軍は、11月19日、100万を越える将兵、1万3千を超える大砲、900両の戦車で猛攻をかけてきた。人員だけでドイツ軍の優に3倍、戦車に至っては10倍の圧倒的な戦力である。3500もの大砲、及びスターリンのオルガンから一斉に火を噴く様を見たドイツ軍将官は、「あんなにものすごい集中砲火は、先にも後にも始めてだった。」と、語っているほどのもので、ドイツ軍だって、どのくらいこの反攻に耐えることができただろう。運の悪い(ジューコフ将軍の頭のいい)事に、この猛攻は、側面を守っているルーマニア軍に向けられた。その日の内にルーマニア軍は壊滅して、前線は存在するのをやめた。ルーマニア軍の後ろで「お守り役」を命じられていたドイツ機甲部隊は、大部分をチェコの戦車、残りはルーマニアの戦車(それも合計たったの30台)で武装していた為、懸命に戦ったが、多勢に無勢、前線を再構築するには至らなかった。

こうしておよそ30万のドイツ軍(及びイタリア、ハンガリー、クロアチア、ルーマニア)の将兵が、スターリングラートに包囲されることとなった。その後、3ヶ月ほども続く包囲戦(Kesselschlacht)で生き残って捕虜になったのはわずか9万人、さらに捕虜生活を生き延びて本国に帰国したのはたったの5000人。30万人の将兵の内、この地獄を生き延びたのはたったの5000人である。だから戦後、「どうしてスターリングラートの悲劇が起こったのか。」の議論がさかんに交わされて、「ヒトラーが悪い。」という結論になったのもうなずける。というのも、包囲された将兵を救い出すチャンスがあったのだが、ヒトラーがこれを拒否してしまったのである。

ドイツ軍がスターリングラートで罠にかかると陸軍将軍は、「今すぐ、退却令を出してください。それ以外に将兵を救う道はありません。」と、ヒトラーに嘆願した。しかし、まさにこの将軍達がチャルコフの戦闘で、攻撃計画を放棄して、防御に移るように上奏しなかったか?1941年の時だって、この同じ将軍がモスクワ攻撃を上奏しなかったか?そして言う事を聞いたばかりに、大敗北を喫したではないか。逆に言う事を無視したら、大勝利になったではないか。そう考えると、ヒトラーが将官の提言を受け入れのに抵抗があったのは理解できる。さらにこの会議にてヒトラーは、「私は(君たち将官とは違って)、どれだけの砲、戦車、車両がスターリングラートに投入されているかよく知っている。スターリングラートを放棄する事になれば、この戦争を攻勢で終わらせることは不可能になる。」と、率直にその心理を語っている。しかし、ツアイツラー将軍の猛烈な嘆願に合い、ヒトラーの決心が緩んだ。そして退却令を出すことに、同意してしまう。ここで全国元帥のゲーリングが大本営にやってくる。

ゲーリングは、「私の空軍には、包囲された将兵に空から食料弾薬を補給しても有り余る能力がある。」と、嘯いた。これを聞いたヒトラーはその嬉しい知らせに狂喜して、退却令を取り消してしまう。こうして第二次大戦最大の空の補給が始まるが、ドイツ空軍は包囲された第六軍が必要とする補給物資の1/3も輸送することができず、ゲーリングは腹を立ててカリンハルに引きこもってしまう。こうしてスターリングラートでは日本軍のガダルカナルのようにバタバタと餓死する兵隊が相次いだ。包囲された将兵の最後の希望は、ヒトラーが約束した「救出作戦」。この作戦はWintergewitter(冬雷)と作戦名がつけられ、セベストポリ要塞を奪取して元帥に昇進したマンシュタイン元帥が陣頭指揮を取る事となった。包囲された第六軍の救援の為に急遽構成されたドン軍団は、ジューコフ将軍の猛反攻で生き残った残存部隊に、ドイツ軍の占領地から救出作戦の為に引き上げてきた部隊が加わったもので、その中核を成すのは3個戦車師団だった。マンシュタイン元帥は、これではジューコフ将軍の鉄の輪を断ち切るのに不十分だと感じ、コーカサスで未だに攻勢をかけている第四軍の進軍を止めて、この救出作戦に投入するように進言したそうだ。マンシュタイン元帥は、その後、ヒトラーから左遷されて終戦まで日記の「改正」に余念がなかったので、どこまで将軍の日記を信用してもいいのかわからない。「(マンシュタイン)将軍は、作戦開始前はかなり自身に満ちていた。」と、生き延びた将官は証言している。

この救出作戦は、当初からかなり混乱した。ヒトラーは救出軍の側面が脅かされているのを心配して、ここに一個戦車師団を配置するように命じた。しかし、2個戦車師団では到底救出作戦の成功の見込みがないと悟り、再度、部隊移動を命じている。これが理由で、12月12日に救出作戦が始まったが、マンシュタインは2個戦車師団を攻撃の矛先として投入できただけだった。圧倒的な優位を誇るソビエト軍を相手にドイツ軍、特にホート将軍の第四戦車軍は多大な我の損害にもかかわらず、よく戦った。包囲されている第六軍を勇気づけるため、戦車は照明弾を夜空に撃ち、救援が迫っている事を告げた。遅れて到着した第17戦車師団が攻勢に加わると、進撃が加速されスターリングラートまであと55kmの地点まで進出した。ここでソビエトの諸葛孔明たるジューコフ将軍が、「待ってました!」とばかりに反攻(の反攻)を開始する。それも進軍中のドイツ軍の側面を防御していたイタリア軍に向けて。イタリア兵に、ジューコフ将軍の猛攻を耐える事を期待する人は居ないだろう。こうして前線が150kmもの幅に渡って崩壊、急援軍自体が包囲される危険が生じた。マンシュタイン元帥はホートの第四戦車軍に進軍を止め、ぽっかり空いた穴からなだれ込んでくるソビエト軍の進軍を止める為、ホートの部隊の虎の子、第六戦車師団を派遣するように命令せざるを得なかった。

ホート将軍は、この命令に抵抗した。この機会を逃せば、包囲されている戦友を救う機会が永遠に失われてしまうからだ。その代わりに敵に包囲される危険を冒し、12月24日に第四戦車軍の全力を挙げて最後の救出攻勢に出る許可を求めた。同時に包囲されている第六軍もホート将軍の急援軍に向かって残る戦車を利用して、急援軍まで戦い抜けてくる(frei kaempfen)ように要請した。当初ヒトラーはこの案を承認したが、大本営で誰かが、「第六軍には30km分の燃料しか残っていない筈だ。」と、余計な事を言ったばかりにヒトラーの気が変わってしまった。スターリングラートに投入した資材が失われてしまう事を恐れたヒトラーは、「第六軍は現在位置に留まる。」と命令した。こうして第六軍の命運は尽きた。唯一の生存の可能性は、第六軍の司令官であるパウルス将軍がヒトラーの自殺命令を無視して、撤退命令を出すことだった。人間、死ぬ気になれば思わない力が出てくるものである。運がよければ、ホートの戦車部隊への回廊が開けるかもしれない。うまくいかなくても、このまま包囲されたまた凍死あるいは餓死するのを待つよりも、戦って死んだほうがまだマシだ。

パウルス将軍の側近は、撤退命令を出すように懇願したが、将軍は、ここで将兵の命よりも、保身を優先した。撤退がうまくいってドイツに帰国したら、総統命令を無視した廉で、本人は死刑、家族は強制終了所送りになる。しかしソビエト軍に降伏すれば、将軍(後に元帥)は優遇されるので、命の心配はない。こうしてパウルス将軍は、これまで何万という将兵に死ぬことを命令しておきながら、自身の命を救うことに、つまりスターリングラートに留まる事した。こうして包囲された将兵には生き延びる可能性が断たれたが、乏しい補給と猛烈な悪天候に悩まされながら、ドイツ軍はなんと2月20日まで戦い抜いているから、感心するばかりだ。こうしてヒトラーにはスターリングラートの後方に新しい前線を構築する時間が出来た。そして翌年、「もう楽勝」と、ドイツ軍をあなどってこの戦線に猛攻をかけてきたソビエト軍は、ハリコフの戦いでドイツ軍に叩きのめされている。又、役に立たないゲーリングの代理人のミルヒ空軍将軍(後に元帥)は、ゲーリングが「さじを投げてから」有り難くない空輸の任務を引継ぎ、補給量を飛躍的に上昇させた。そして空港がソビエト軍に奪取されるまで補給物資を運び続け、傷病兵を空路、地獄から本国に連れ帰っている。

スターリングラート陥落前、ヒトラーはパウルス将軍を元帥に昇進させて、敵に投降せず、自殺するように暗に指示した。(敵に降伏したドイツの元帥はいない。)ところがパウルスは女々しくも敵に投降してしまう。これを聞かされたヒトラーの怒りはものすごいものだった。降伏後、パウルスはソビエト軍に協力を惜しまなかった。ドイツの敗戦後はニュルンベルク裁判に被告ではなく、ドイツ軍の非道を証言する証人として登場している。どの道、「裏切り行為」に出るなら、まだ救出の可能性があった時に、すべきであった。元帥は、1953年には東ドイツに帰国、SED党員になり、以後、西ドイツ政府及び西側諸国を非難することに人生を費やした。

尚、スターリングラードに包囲されたのは、何もドイツ軍だけではない。政治局員の指令により市民は避難を禁止され、10万人を超える民間人が殺されている。ソビエト軍も30万人もの死者を出しているから、全部で70万人もの人命がこの戦闘で失われたと見られている。比較するのが間違っているかもしれないが、この数は広島と長崎に投下された原爆で死亡した死者数に、沖縄戦で死亡した両軍及び民間人を合わせたよりも多いから、どのくらいの激戦だったか想像できるかもしれない。ここでドイツの勝利の夢が費えたので、戦後のドイツ史ではその責任をヒトラーに負わせることに熱心だ。しかし、すべてが終わった後で、「あのようにすべきだった。」と、言うのは容易い。退却するのが正しい選択だったのは疑いようがないが、会戦当初から間違った助言ばかり聞かされて、将軍の意見に疑問を持っていたヒトラーに、「しかし、今度はその側近の言う事を聞くべきだった。」と、要求するのは正当だろうか。クラスや会社でいつも間違った事ばかり提案する人の意見を再び聞かされて、「今度は彼の提案を聞いてみよう。」と、思う人はほとんどいない筈だ。

余談。戦後、この町を訪れたフランスの将軍、ド ゴールは町の惨状を見て、"Was fuer ein Volk!"(なんたる国民だ!)と漏らしたそうだ。お付の補佐官が、「ソビエトの抵抗力は凄いですね。」と調子を合わせようとすると、"Nein, ich meine die Deutschen!"(ドイツ人のことだよ。)と、語ったそうだ。最新の飛行機でもドイツからスターリングラート(今では名前を変えて、ボルゴグラート)までたっぷり4時間かかる。そんな遠隔地まで熾烈な地上戦を戦いながら進出して、町を破壊しつくしたドイツ人の「能力」に、ド ゴールは驚嘆した。同時に賢いド ゴールは、「欧州の平和は、ドイツ人となんとかうまくやっていく以外に有り得ない。」と、悟ったようだ。その後、フランスにて大統領となったド ゴールは、戦争中、生存をかけて戦ったドイツとの平和共存を目指して何度もドイツを訪問、ドイツ語で演説までしている。こうして今の欧州共同体の基礎が築かれる事となったのだから、不思議なものである。


ドイツ軍の夏季攻勢(クリックすると拡大します。)


ソビエト軍の冬季攻勢「小さな悪魔」で包囲された第6軍。


ソビエト軍の冬季攻勢の成果。


勝利の旗を掲げるソビエト兵。


  

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