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ドイツ史 & ドイツの達人列伝

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ドイツ史

日本に限らず、ドイツでも歴史物のドキュメンタリーがテレビでよく放映されています。こうしたドキュメンタリー物は、何も歴史の解明を目的にしたものではなく、視聴率、つまり金儲けを目的にしているので、あまりにも誤謬が多くなっています。「テレビで放映されるものだから仕方ない。」と言えば、それまですが、1分おきに歴史の書き換えが行われているのを見ると、頭を抱えてしまいます。もっとひどいのはこうした番組を見た人が、すっかり歴史学者になった気分で、「本当はね、、、。」と、テレビで放映された内容を金科玉条のごとく信じて「歴史」を語る事。
その一例を挙げると、第二次大戦中、ドイツ軍はフランスの構築したマジノ線を背後から急襲したので、マジノ線はあっけなく突破されたという御伽噺。実際には、ドイツ軍、それもロンメルが率いる戦車部隊がマジノ線をセダンにて正面から突破、こここからドイツ軍は一気に英仏海峡に向けて進撃、フランス軍と英国派遣軍を「袋の鼠」にします。その後、赤号作戦("Fall Rot")で弱体化したフランス軍をドイツ軍が「海峡海岸」からスイス国境に向けて南下します。この際、確かにマジノ線を後方から強襲するシーンもありましたが、これはすでに戦闘の行方が決まった後の話。
こうした歴史の自由気ままなな解釈に悲嘆したある学者が「歴史家には、神にさえ与えられていない能力を与えられている。それはすでに起こったことを変える能力である。」と言っています。この「歴史家には、、。」の部分を「テレビ局」に置き換えれば、まさに今の風潮を的確に表現しているといえます。
どうかテレビで見た、あるいは週刊誌で読まれた歴史を本気にされないように注意してください。それは歴史ではなくて、娯楽(Unterhaltung)です。この事実を実例をもって証明する為に、ここでは日本で頻繁に誤って伝えられているドイツ史、あるいは日本で知られていないドイツの歴史を紹介していきます。
ドイツに留学されるなら、ドイツ史について理解していれば、それだけドイツの生活を楽しむ事ができます。街中に立っている銅像を見て、「これって誰なの?」と思うより、「ああ、こんな所に〇〇〇の銅像が。ひょっとして、この人はこの町で生まれたのか?」と、好奇心がわいてきます。この好奇心こそが、ドイツを理解する鍵。このページを読んで、ドイツ史について好奇心がわいてくる事を期待して、以下にドイツの達人を紹介していきます。

  
Rudolf Diesel (11.09.2010)

誰でもその名を知っている著名ドイツ人の一人は、Diesel。「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す。」という言葉がぴったり当てはまる。あまりに著名な名前の為、これは(ドイツ)人の名前であることさえ知らない人もいるくらいだ。そこで今回はその知名率は高いが、その人生についてあまり知られていないディーゼルについて紹介してみたい。

ディーゼルは1858年にパリにて生まれた。と書くと、「じゃ、フランス人じゃん。」と思われる方も多いと思うので補足しておくと、故郷のアウグスブルクで製本職人だったディーゼルが、仕事を求めてパリに移住。ここでニュルンベルクから移住してきたStrobelと結婚して、その夫婦間で産まれた子供なので、生粋のドイツ人。もっとも、ドイツ語よりもフランス語の方が得意であったが。この生まれ育った境遇が、後の人生で決定的な役割を働くことになるが、それについては後述。ディーゼルの父は、パリにて革製品を製造する小さな家族経営の店を所有していたが、大方の手仕事がそうであったように、決して商売繁盛というわけではなく、ディーゼルは幼少の頃から家業を手伝わなければならなかった。折り悪く(それとも良く?)1870年に普仏戦争が勃発すると、敵性外国人は国外追放になり、夫妻は「中立国」のイギリスにて逃避生活を続けるが、「食い扶持」を減らすため、息子は故郷、アウグスブルクのの親戚の元に送られる。これがディーゼルの人生の大きな転機点となる。

アウグスブルクで職業訓練学校に通ったディーゼルは、言葉がまだ不自由なのに学校を主席で卒業する。ここで自分の能力に気づいたようで、技師になることを志し、工業学校に入学する。この学校も主席で卒業すると、バイエルン州から奨学金が下り、ミュンヘン工科大学に入学した。チフスにかかって1年休学したにもかかわらず、1879年にはミュンヘン工科大学史上、最高の成績をもらって卒業したから、かなりの秀才だったようだ。卒業後、ドイツで就職するかと思いきや、「故郷」のフランスに戻り、パリで製氷工場に就職する。ここでも出世は早く、1年で工場長に出世している。この工場にてディーゼルは透明な氷を壜の中で製造する方法を考案、フランスとドイツの両方でパテントを取得すると、この発明を製造してくれる工場を探している際、アウグスブルクの工場主、Buzと出会う。Buzは若きディーゼルの中に才能、独創性を見抜いたようである。ディーゼルも故郷の有名な工場主が自分の発明を信じて製造ラインを製造してくれるので、大喜び。この話はすぐに契約となり、2年後には氷の製造ラインを納入している。ちなみにこの工場の名前は、Maschinenfabrik Augsburgで、ドイツ式の略称はM.A.。
          
この時期にディーゼルはフランス人技師、Sadi Carnotの著作を読んだようである。Carnotは当時の最先端技術であった蒸気機関のエネルギー効率(6〜10%)に関してその改善の余地を提唱したが、誰にも注目されず、その著作も初版だけで終わっている。もしディーゼルがドイツで産まれていたら、このフランス語だけで印刷された著作を読む事はなかっただろう。(死後60年経ってから、功績が認められて再販に至り、外国語に翻訳された。)ちょうどドイツ人技師のOttoが世界で始めて内燃機関を発明(この為、ドイツではガソリンを使用する内燃機関エンジンをOttomotor、オットーエンジンとも言う。)、1890年にはダイムラーとマイバッハがこの内燃機関を備え付けた世界初の自動(Auto-)車(Mobil)のパテントを申請したのが、ディーゼルにこのCarnotの定義を真剣に研究するきっかけになったようだ。ディーゼルは勤務先をベルリンの製氷会社に変えてからも、余暇を利用して独自の内燃機関の開発に没頭した。

ディーゼルはエネルギー効率を上げるため、オットーとは別のエンジンの設計に没頭した。ディーゼルの計算では、燃料と空気の混合物をエンジン内で圧縮する事により自然発火が発生、効果的に燃料を燃焼するばかりでなく、高圧縮率の為、高いエネルギー効率を実現する筈だった。問題はどの程度まで空気と燃料の混合物を圧縮すれば自然発火が起きるのか、誰も知らなかった事。さらには自然発火が可能だとしても、そのような高圧力に耐える機械が19世紀の技術で製造可能だとは誰も思わなかった事。この為、片っ端から製造機械を製作している工場に手紙を書いて独自の内燃機関の実現性を提唱するが、「前例がない。」「そんな事は誰もやっていない。」「そんな物は無理。」と、全く相手にされなかった。こうした専門家の意見にもかかわらず、自分の定理を疑わず、研究を進めるのは天才(と精神異常者)に共通する特長だ。ディーゼルは以前、氷製造機会を製造してくれたBuzにこの新エンジンの製造について相談をするが、工場の主任技師に、「そんなものは製造できない。」と一蹴された為、ディーゼルの能力を信じている工場主も無謀な冒険に乗り出すわけにもいかず、熱エンジン(Waermemotor)の製造を断ってしまう。

一体何が工場主の決心を変えたのか、今となっては知る由もないが、通日後、ディーゼルの元にBuz氏から、「以下の条件が満たせれば、熱エンジンを製造する用意がある。」との手紙が届いた。その条件のひとつは、主任技師が「耐久性ぎりぎり」と主張するレベルまで圧縮率を下げる事。もうひとつは、この製造が失敗に終わったり、開発が長引いて会社が経済的に破綻しないように、金を出してくれる共同開発者(社)を見つける事。最初の条件は、設計図を書き直す「だけ」で済んだが、後者はそうはいかない。そこでディーゼルは、ものすごく長いタイトルの本、"Theorie und Construktion eines rationellen Waermemotors zum Ersatz der Dampfmaschine und der heute bekannten Verbrennungsmotoren."を書いて、新熱エンジンのエネルギー効率の高さを主張した。同時に本を読んだ誰かがアイデアを盗んで勝手にパテントを申請しないように、パテント申請。幸運(それとも不運?)な事に、この本に特別な興味を見せたのが、ドイツ海軍とKanonenkoenig(大砲王)でしられる鉄鋼帝国の主、クルップだった。

ドイツ海軍は来るべき戦争で、七つの海を制覇している英国海軍を叩く可能性を秘めている新型エンジンに興味を持ち、クルップはドイツ陸軍だけでなく、ドイツ海軍にもエンジンを納入して大儲けする可能性を見出して興味を持った。こうしてM.A.とクルップは共同して新型熱エンジンの開発に乗り出すことに合意した。もっともクルップが金を出し、エンジンはアウグスブルクで開発、製造するという分担式だったが。噂ではクルップの高圧力に耐える大砲(鋼)の製造のノウハウがM.A.に流れたらしいが、これを証明する記述は見つかっていない。1892年〜1893年にかけて開発が始まり、一番最初のテストは、工場主、主任技師、従業員が緊張して見守る中で行われた。ディーゼルは主任技師の要求で圧縮率をかなり下げていたため、この圧力下で果たして自然発火がおこるかどうか全く自身がなかった。蒸気エンジンを利用して、このかなりでかい世界で最初の熱エンジンを駆動させると、いきなりエンジン内の圧力を測るメーターが吹っ飛んで、その穴から黒い煙が出て、エンジンは止まってしまった。一見、「大失敗」に見えるこの試験運行は、黒い煙が実証する通り、エンジン内で自然発火が生じた事を証明しており、実際には「成功」で、ディーゼルの論理が正しい事を証明した。

面白いことに当時はまだディーゼル、つまり軽油を使用するとは考えておらず、最初はガソリンにて試験をしている。しかしガソリンは発火温度が低いので、肝心な圧縮率に達する前に燃焼してしまう欠点があった。その後の試行錯誤でガソリン製油の際に出てくる安い燃料、軽油を使用すると、高圧力でないと発火しない事がわかって、新型熱エンジンの燃料は軽油を使用する事になった。後にはエンジンだけでなく、この燃料もディーゼルの名前で呼ばれるようになるから、面白い。その他にも数え切れない試行錯誤が必要になり、継続運行が可能になるまで、当初予定していた半年ではなく、2年もかかっている。1898年にM.A.は、ディーゼルのパテントを扱う会社、Dieselmotorenfabrik Augsburgを設立、ここでパテントの管理、エンジンの開発、そして販売を行うこととなった。しかし実際には、ディーゼルが新型エンジンの開発に成功すると、「俺のアイデアを奪った!」と主張する輩からの訴訟が殺到、ディーゼルは神経症で病院送りになっている。退院後、ディーゼルは1900年にパリで開かれた万博でグランプリ賞を獲得することを目指して、改善を重ねる。その甲斐あって、ディーゼルの熱エンジンは大注目を浴びて、夢のグランプリ賞を獲得、ディーゼルは人生で一番の幸福感を味わっている。さらにはディーゼルのエンジンの注文依頼が殺到して、一夜して文無し(同然から)、いきなり大金持ちになった。ちなみにディーゼルは先見の明があったのか、それともフリークなのか定かではないが、すでに19世紀の時点で化石エネルギーからの脱却を考えており、万博に展示されたディーゼルエンジンは、ピーナッツ油で駆動していたという面白い話がある。つい最近になるまでそんな奇妙な事は誰も考えもしかなった事を考えると、ディーゼルは時代の100年も先を行っていたのかもしれない。

これで人生は順風満帆?かと思いきや、これからディーゼルの人生は下り坂。ディーゼルエンジンは、その高いエネルギー効率(26.2%程度。当時のオットーエンジンよりも効率が良かった。)の為、まずは発電所に納入された。次は観覧船にディーゼルエンジンが導入され、1912年にはディーゼルエンジンを搭載した、初の大西洋横断船が就航している。これをドイツ海軍が放っておく筈はないが、ディーゼルは平和主義者で軍隊が大っ嫌い。この為、海軍からの受注を蹴るという無謀な事をしている。さらには人類の平和共存を夢見て本まで書いているが、そんなヒッピーな本を出版しようという出版社はなく、ディーゼルは自費出版。本は全く売れずに、大半は売れ残った。さらにはミュンヘンに城のような邸宅を買い、まだ余っていた金で投資すると見事に全部すってしまい、邸宅に住みながら明日の心配をする生活に戻ってしまう。ここでこの借金を一括返済するばかりか、又、大金持ちになるチャンスがやってくる。(世界の海を制する)英国からディーゼルエンジンの問い合わせが入って来た。ちょうどディーゼルは英国に工場を建てたばかりであり、工場の起工式に出席に合わせて、うまくいけばイギリス政府から大量契約を取って借金を一気に返済できるかもしれない。そこで大戦前夜の1913年、蒸気船ドレスデンに乗ってイギリスに向かったが、蒸気船がポーツマスに入港した時には、ディーゼルの姿はなかった。数日後、オランダの水路案内船が水死体を引き上げるが、持参品でこの遺体はディーゼルと確認された。

ディーゼルの死因については、いろんな憶測がされたが、「借金苦の為の自殺」が、当時のドイツ政府の公式見解。しかし来るべき戦争で決定的な役割を演じるディーゼルエンジンを英国に納入するなど、ドイツ海軍にとってはもっての他。この為、ディーゼルは事故に見せかけて殺害されたとする説が(特に戦後)有力視されている。ちなみにディーゼルのエンジンを開発したM.A.社は、今日でも健在。1908年にニュルンベルクにあった製造機械会社(Klett & Comp)と合併、Maschinenfabrik Augsburg-Nuernbergとなり、今日のM.A.N.社に至っている。MAN社は今日ではトラックで有名だが、その他にも貨物船などに提供する巨大なディーゼルエンジンを製作しており、その先端技術ではまだ韓国、日本に負けていない。そのいい例が乗用車のディーゼルエンジン。日本ではディーゼルエンジンの開発が進んでおらず、ディーゼルエンジンと言えば未だに真っ黒な排気ガスを出すディーゼルエンジンを想起する人が多い。しかし、ドイツではディーゼルエンジンの開発では世界で最先端の技術を誇っており、アウディはルマンの24時間レースで始めてディーゼルエンジン車を投入、5年連続で優勝するという前人未到の記録を打ち立てている。この例が示すように、ディーゼルエンジンは、オットーエンジンよりも耐久性があり、エネルギー効率(燃費)がいい。さらには燃料も安いので、排気ガスの問題させ解決できればガソリン(オットー)エンジンよりも優れている。そしてこの排ガスの問題もドイツで新開発された技術により、解決された。こうしてディーゼルが生存中に果たせなかった夢、いつの日にかディーゼルエンジンを自家用車に搭載、は、その死後、本人の期待以上に満たされている。
 


見るからに秀逸そうなディーゼルが


発明したディーゼル エンジン。



Heinz Guderian (01.07.2010)

ハインツ グデーリアン(グーデリアンではない。)、ドイツ戦車部隊生みの親。数多いドイツ将軍の中でも最も優れた将軍の一人だったが、戦後、ロンメルばかりが「贔屓」されて、ドイツ中にロンメル通りがあるが、グデーリアン将軍の功績は無視されている。少なくともグデーリアン通りは見たことも、聞いたこともない。しかしグデーリアンなくしてはロンメルの昇進は言うまでも無く、ポーランド侵攻作戦での短期間での勝利、対フランス戦での勝利はなかった。それどころかグーデリアンは1941年にソビエト軍を敗北の間際までおいやっている。そこで今回は、ドイツの戦車将軍、"Schneller Heinz"の異名で知られたグデーリアン大将を紹介してみたい。

グデーリアンは1988年にシュレージエンに生まれた生粋のプロイセン人で、家族は代々、プロイセン軍に「奉公」していた。この生い立ちには、長所と短所を伴う。長所は家族の伝統に添い、グデーリアンはすでに13歳にして軍事学校に送られて、将来の将校として英才教育を受ける事ができたこと。お陰で第一次大戦の際は将校として後方勤務に就き、何万という無名の兵のように前線に送られて"Kanonenfutter"(大砲の餌食)となる運命を避ける事ができた。短所は、ヒトラーに嫌われて「早期退職」していたのに、1944年に生まれ故郷が戦場になった際、これを防衛する為に再度、ドイツ参謀本部長として軍務に就いた事。お陰でニュルンベルク裁判では戦争犯罪人として、牢屋にぶちこまれてしまった。

日本でも(陸軍)士官学校にて、どの兵科に所属するか、希望を出す事ができるが、グデーリアンが将校になった当時は、それほど多くの兵科はなく、又、「空き」があったのは機関銃部隊と無線部隊の二つだけ。グデーリアンはどちらの「専門職種」を選んでいいのか決心がつかず、軍人だった父に助言を請う。先見の明のある父は、「機関銃は19世紀の技術で、無線は20世紀の技術だ。無線の方が将来性があるだろう。」と的確なアドバイスを施した。こうしてグデーリアンは無線部隊将校として専門教育を受ける事になるが、この時点で30年後のドイツ戦車部隊の活躍の基礎が築かれた。第一次大戦が勃発すると、グデーリアンは当初、無線将校(中尉)として軍務に就き、翌年大尉に昇進すると、参謀本部付き将校に転職命令が出た為、敗戦まで参謀本務勤務となり「命拾い」している。軍事大学時代に築いた人間関係が効いたようだ。
          
ドイツの敗戦後は、バルカン半島で傭兵としてまた軍務についているから、余程、戦争が好きなのか、他に仕事が見つからなかったのか、詳しい事はわからない。ワイマール共和国で10万人の再軍備が始まると、幸運にも戦争大学にて講師として迎えられた。その後、少佐に昇進すると同時に、(将来の)機械化部隊の教官、表向きには輸送部隊司令官に任命されているが、その任命理由が面白い。当時、ドイツ軍には機甲部隊の経験が全くなかった。又、機会部隊を創設しようにも、ヴェルサイユ条約で禁止されているので、その運営も戦術もさっぱりわからない。そこで「無線将校」として20世紀の技術を理解している「グデーリアンを任命してしまえ!」という事になった。当時はまだ騎馬部隊が機動部隊で、戦争の主力と考えられていたから、この任命は左遷にも等しいものだった。しかしグデーリアンはこの任命に挫けるどころか、大いにやる気を見せて、段ボール箱で戦車の模型を作ると、これを手押し車に乗せて「模擬戦」の研究を始めた。この「ドイツ機甲部隊」を見て、果たして誰が20年後の破竹の快進撃を想像できただろう。

グデーリアンはドイツ機甲部隊の創立を夢見てReichswehr(ドイツ第二帝国軍)内で何度も戦車師団創設を上奏するが、無視されてしまう。この反対は主に騎馬部隊から来た。騎馬部隊は、「段ボール箱の戦車が、馬に叶うわけがない。」と機械化師団に猛反対。対ポーランド戦では、「ドイツの戦車部隊にポーランドの騎馬部隊が戦い挑んできた。」と、ポーランドの騎馬部隊は笑い者になっているが、ドイツ軍内部でも大差が無かったことに注目されたい。グデーリアンが居なければ、ドイツ軍は騎馬部隊でポーランドの騎馬部隊と対峙していた事だろう。ドイツにとって幸運なことに、グデーリアンは抵抗、反対に遭ったくらいで簡単にあきらめる人間ではなかった。生粋のプロイセン人は妥協しない(できない)。グデーリアンは四面楚歌の状況にあっても、これに挫けず、将来の機械化部隊の創設を夢見て、機甲師団運用の研究を続けた。

諦めないので、執拗に必要なだけ努力を続ければ、いずれは風向きは変わってくるもの。この場合でも例外ではなく、ナチスが政権を取ると、ヒトラーはグデーリアンに戦車師団、しかもグデーリアンが常に主張していた3個師団の創設を命じる。この時点でヒトラーは戦車の将来性を見たわけではないが、新しいもの好きだった上、西側諸国と同じ軍備では到底、戦闘に勝てないことは自身の戦争経験から学んでいた。グデーリアン自身は第二戦車師団長に任命され、これまでの功績を認められ、同時に少将に昇進している。戦争が近くなってきた1938年にはグデーリアンは中将に昇進して、軍団長になる。同年のオーストリア併合、続くズデーテン占領では、グデーリアンの戦車部隊はドイツ国境からオーストリア、そしてチェコまで走破して、戦車が実戦でも「役に立つ。」事を証明した。こうしてグデーリアンは公式に、General der Panzertruppen(全戦車部隊の将軍)に任命され、その戦術、装備の総責任者になっている。

ポーランド戦でのグデーリアンの戦車部隊の活躍はすでにご存知の通り。前線を視察していたヒトラーがある日、グデーリアンの戦車師団にもやってきた。ヒトラーは目前のポーランド軍の壊滅具合を見せられると、「これはストゥーカがやったのか?」と問う。"Nein Fueher, Unser Panzer war es!"(総統、これはすべて戦車部隊の成果であります。)とグデーリアンが回答すると、ここで始めてヒトラーは戦車の意義を理解した。さらに驚くほど少ない死傷者数を聞かされると、もう戦車の優位性は疑いようがなかった。ヒトラーはポーランド戦が終了すると機甲師団の数を3倍にする事を命じ、1940年の対フランス戦では10個戦車師団に、6個機械化師団、それに2個SS機械連隊が戦闘に投入された。もっとも戦車の数が足らないので、戦車師団に配属される戦車の数は半減したが。対フランス戦でその効力を再び証明した戦車師団は、翌年のバルバロッサ作戦前にはなんと20個戦車師団にまで倍増されている。ちなみにグデーリアンの計画にかたくなに反対していた騎馬師団が廃止され、これらが戦車師団に変わっていったのは皮肉としかいいようがない。

こうした華々しいドイツ戦車師団の活躍を見て、ドイツ軍の戦車は連合軍の戦車よりも優れていたと主張する人が後を立たないが、"Fall Gelb"でも述べたように、ドイツ軍の戦車はその数、装甲、武装において、連合軍の戦車に劣っていた。その劣勢な戦車を持って優勢な敵軍を撃破する事ができたのは、グーデリアン将軍が考案してた戦術のお陰だった。まずは無線将校の経験を生かして、戦車に無線装置を標準装備した。これにより前進する戦車部隊の先頭で指揮をする司令官は、戦闘の状況に合わせて、戦術を自由に変更する事が可能になった。又、ものすごい騒音で何も聞こえない戦車内で、乗員間のスムーズな会話が可能になった。連合軍の戦車にも無線装置があったが、これは無線を受信するだけで、発信できなかった。おまけに司令官は安全は後方地域にて指令を出していいる為、戦闘前に決めた戦術を、これがうまく行こうがいかまいが、おしまいまで実行するしかなかった。さらには戦車はその登場の歴史から、連合軍内部では「歩兵の補助」として考えられていた。つまり戦車が敵の防衛線を破り、この割れ目から歩兵が突撃、敵陣地を確保するという戦術である。ところがグデーリアンの戦車が己の陣地に向かって突進してくると、この戦術は意味がなくなった。戦車は攻撃の為の兵器であり、防御を主眼に開発されたものではない。

グデーリアンはさらにその先を行って、敵の防衛線を戦車で突破すると、歩兵が追いついて側面の防御をするのを待たず、どんどん先に進軍した。連合軍はこのような戦術に準備が出来ていなかった。まだ数十キロ先に居るはずのグデーリアンの戦車師団がいきなり現れると、フランス兵はあちこちでパニックに陥り、逃亡した。普通なら逃亡するフランス兵を駆り立てて捕虜として後方に移送するものだが、グデーリアンはこれも(時間がかかるので)無視。この敗残兵は後方の陣地まで辿り着くと、「ドイツ軍の戦車がすぐ近くまで来てるぞ!逃げろ!」とパニックを煽った。この為、グデーリアンがさらに戦車を先に進めると、すでに浮き足立っていたフランス兵は本当に出現した戦車驚いて、銃を捨て逃げるという始末。あまりに速いグデーリアンの戦車部隊の快進撃に不安を感じたドイツ軍参謀本部は、グデーリアンに側面の防衛ができるまで進撃を止める様に命じた。進撃を止めれば、フランス軍に体勢を整えて反撃にでる時間を与えると考えたグデーリアンは、この命令を無視して進撃した。この命令違反でグデーリアンは第二戦車師団長を解任されるが、この解任は前線で出される命令をすべてチェックしていたヒトラーの目に留まり、総統命令で解任命令は取り消される。こうしてドイツ軍は一気に海峡海岸まで進出、連合軍をダンケルクに包囲するが、ここで有名な「停止命令」がグデーリアンの戦車師団に下される。この命令は「総統命令」だったので、グデーリアンは無視する事ができず、ダンケルクの直前で攻撃が停止してしまう。この隙を利用して連合軍は、思っても居なかった派遣部隊の救出に成功する。

戦後、この「停止命令」に関してさまざまな憶測が交わされることになる。日本では「ヒトラーは英国との決裂を避けたかった。」とか、「ヒトラーはイギリスのユダヤ人から金をもらっていた為、進撃を止めた。」という、根拠も証拠もない憶測に人気が集中した。実際は、実に簡単な理由。対フランス戦が戦車師団の活躍で勝利になりつつあるのを見て我慢できなかったのが、ドイツ空軍総司令官のゲーリング元帥だ。これまでドイツ空軍は、戦車師団の援助攻撃ばかりで、「花舞台」に欠けた。そこでゲーリングはヒトラーにダンケルクに包囲された連合軍の後始末は空軍に任せるように説得してしまう。戦闘には「勝ったも同然」と思っていたヒトラーは油断して、これを承諾、戦車部隊に停止命令を出すことになった。ところが英国空軍はダンケルク上空にて局地的制空権を確保、ドイツ空軍は思うように爆撃機を投入できなかった。また連合軍を恐れさせたストゥーカも砂場では、その爆弾の効力が発揮できなかった。連合軍が大量に逃げ出して誤りを悟ったヒトラーは再び進撃命令を出すが、すでに時遅し。グデーリアンの戦車が海峡海岸に達する頃には、敵の主力部隊はすでに逃げ出した後だった。

英国派遣軍を欧州大陸から駆逐後、ドイツ軍はFall Weiss(白号作戦)を発令、残存フランス軍の撃滅に取り掛かる。この作戦ではグデーリアンの戦車師団は海峡海岸からスイス国境まで戦いながら一気に南下、フランスの構築したマジノ線を背後から急襲した。スイス国境に達したグデーリアンはその旨、大本営に伝達するが参謀本部はこれを信じず、「似たような名前の他の街ではないか。」と問いただしたほど、進撃は早かった。こうしてグデーリアンは"Schneller Heinz"との異名をいただく。この功績でグデーリアンは大将に昇進、41年の対ソ戦では中央軍団に配置されて、命令下にあった戦車師団で快進撃をするが、スモレンスク奪取後、キエフかモスクワの大論争に巻き込まれる。参謀本部は敵の首都、モスクワの奪取を主要目標と考えていたが、ヒトラーはキエフを奪取後、コーカサスに進撃して油田を確保する方を好んだ。これによりドイツ軍は英国、米国と十分に戦えるだけの資源を手中に収める事ができるばかりではなく、ソビエトからこれらの資源を取り上げて戦争の早期終結を期待できるからだ。参謀本部の支持するモスクワ進撃では、戦争の終結に何の効果もないばかりか、ドイツの乏しい戦争資源はいずれ底を突く。さらにはルーマニアの油田を連合軍あるいはソ連空軍に空爆されると、ドイツの生命線を断たれる危険性があった。

当初、グデーリアンはモスクワ進撃派だったがヒトラーの説得に合い、意見を変えてしまう。これにグデーリアンの上司だったクルーゲ将軍はかんかんに怒った。グデーリアンはキエフに向けて進撃を開始したが、グデーリアンの「裏切り」を許せないクルーゲ将軍は、グデーリアン将軍の命令下にあった戦車大隊を「予備」として取り上げてしまった為、キエフ進撃は思ったように進まなかった。ようやく9月26日になってグデーリアンはキエフの占領に成功、これは名だたる勝利だったが、戦争を終結するにはほど遠く、もっと大事な事には、無駄に時間を消費した。ソビエトでは10月以降は冬とされ、この時期に開始する攻撃は自殺行為に等しかった。そんなことを知らないドイツ軍は10月になってから(夏服で)モスクワ進撃を始めたので、ソビエト軍司令部は不意を突かれた。まさかあの賢いドイツ軍が愚かな自殺攻撃に出てくるとは思っていなかったので、防御措置を取っていなかったのだ。また首都防衛に必要なソビエト軍の大半は、スターリンの間違った判断、「キエフは死守する。」で壊滅してしまい、モスクワ前面は「もぬけの殻」だった。

キエフ陥落後、ティモシェンコ元帥に代わりソビエト最高軍司令部長に就任したジューコフ将軍は、手薄なソビエト軍の予備を見て、快進撃するドイツ軍とモスクワの間には逃亡中の部隊以外に、何もない事実に直面した。ゾルゲ事件で不必要になった極東軍に移動令を出したが、ドイツ軍のモスクワ攻撃に間に合いそうに無く、ソビエト軍司令部は主要な機関、工場のモスクワからの退避を始めた。ここで天気が悪化する。最初の雪がまだ暖かい地表に落ちると、ドイツ軍の進路は泥沼と化し、機甲部隊は戦闘なくして、多くのトラック、戦車を失う。12月になると気温が氷点下20℃まで下がるが、この悪天候の中、ドイツ軍はモスクワ包囲の大攻勢を開始する。数日後には、気温はマイナス30℃まで下落して、ドイツ軍の機動部隊は文字通り凍りついた。まだ動いている戦車、トラックは一晩中エンジンをかけていないと、燃料パイプが凍って動かなくなった。まだ夏服にて前進をしているドイツ兵は、戦闘行動が不可能になり、ドイツ軍の前進は冬将軍に止められてしまう。ここで「待っていました!」とばかりにジューコフ将軍が有名なモスクワ反攻を開始すると、ドイツ軍は対ソビエト戦で始めて退却を始める。ヒトラーは有名な「退却禁止令」を出して部隊を止めようとするが、グデーリアン将軍は夏服で凍えている兵士を見るに見かねて、敵の攻撃に届かない後方に退却してしまう。これが原因でグデーリアン将軍は解任されてしまい、「本国帰国」となる。

1943年の早まったクルスクの大戦車戦で大量の機動部隊を失ったヒトラーは、戦車部隊の建て直しのためグデーリアン将軍と仲直りして、将軍を"Geneapanzerinspekteur"に任命して戦車部隊の建て直しを測る。44年の暗殺未遂事件では、ヒトラーを裏切った陸軍将校に幻滅、グデーリアンを参謀本部長に任命する。上述のジューコフ将軍も、グデーリアン将軍の能力を評価していたが、グデーリアンは他の将軍とは異なり「Yes-Man」ではなく、ヒトラーに向かって堂々と反対意見を述べる事ができる数少ない将軍の一人だった。この為、グデーリアンが参謀本部長になってからは、ヒトラーとグデーリアンの「大喧嘩」は日常茶飯事となる。多分、これがグデーリアンの健康を害したのだろう、45年3月末に職務を解任されて病気休暇に送られているが、これが幸いして大戦を生き延びる事となった。グデーリアンは(解任されて)ユダヤ人殺害にも関与していなかったので、48年には捕虜収容所から解放されて、有名な著書、„Erinnerungen eines Soldaten“を書いているので、戦史に興味ある人は、是非、読んでもらいたい。


Schneller Heinz。40年、西部戦線にて。







Friedrich Flick (23.06.2010)

戦後ドイツ史における3大汚職スキャンダルのひとつに、フリック事件がある(その他はロッキード事件、シュライバー事件)。汚職事件の呼び名は、賄賂を払った人(会社)の名前を冠して呼ばれるので、この場合は、フリック氏、あるいはフリック会社の賄賂事件ということになる。ロッキード事件はここでも紹介したし、日本でも同名の同じ内容の賄賂事件があったので、ご存知の方は多いはず。シュライバー事件は、ドイツの最新事情で紹介した(Catche me, if You can)し、まだ最近(1999年)の出来事なので、ご存知の方もおられると思う。ところがフリック事件は81年に起きた(暴露された)事件なので、「まだ生まれていません!」と言われる方も多いと思う。そこで今回は、ドイツ賄賂事件御三家の中でも最大級のフリック事件について紹介してみたい。

フリック事件の名前の「由来」になったフリードリヒ フリックは、ドイツ第二帝国の成立間もない1883年、NRW州の誰も名前を知らない片田舎(Ernsdorf)に生まれた。両親は言うまでも無く農家であったが、お金を工面して息子を大学に送っている。フリックはケルンの商業大学で経済と経営学を学び、当時最盛期を迎えていた鉱山会社に就職している。32歳の若さで取締役に就任しているから、敏腕なマネージャーだったに違いない。その後、フリックは自分の給料を投資して鉄鋼製造会社の株を買い漁りると、この会社に取締役員として就任、これまでに安く買い集めた株をこの会社に高値で売って、最初の富を築いている。第一次大戦が勃発するとフリックは政府からの武器、弾薬の製造依頼を確保、前線で兵隊がばたばたと死んでいる間、会社の儲けは上昇する一方だった。この功績を認められて、フリックは34歳にて取締役会長に就任している。

ワイマール時代はインフレを利用してシュレージエン地方やルール地方の炭鉱、鉄鋼業を買い漁った。ところが、まずはシュレージエンで買った製鉄会社で大赤字を出し、ついでルール地方で買った炭鉱会社は採算が悪く、フリックは人生で初めて窮地に陥る。ところがフリックには窮地を自分の利益に変える不思議な才能があり、当時のドイツ政府に採算の悪い会社を、時価の数倍の値段で売却することに成功している。経営の才能に加え、政治の風向きを読む才能にも恵まれていたようだ。後に氏が語った所によると、ドイツ政府はフリックが採算の悪い工場、炭鉱をフランスに売却するのを恐れたらしい。ルール工業地帯は、来たるべきドイツ復興を担う経済基盤であったから、これが外国政府(企業)の手に渡ってしまうのを避けたかったようだ。こうしてフリックは、二束三文の会社を高価売却して、またしても一財産を築きあげた。
          
ナチスが台等してくると、政治及び経営感覚に優れたフリックは、SPDとナチスの双方に政治献金を行った。普通の人ならお金をけちってどちらかに献金を絞るものだが、フリックにはそんな危険は橋を渡る慣習はなかった。有名なのは、1932年にデュッセルドルフのシュタイゲンベルガーホテルで開かれた、選挙献金集会。司会を務めたのは、有名な「鉄鋼業者」のクルップ氏。この集会にはヒトラー自身が出席し、「今回の選挙は民主主義、最後の選挙である。ナチスが政権を獲得した暁には、民主主義は廃止して、一党独裁があるのみ。(だから今のうちにたくさん献金しないさい。)」と演説。ついでクルップ氏が壇上にあがると、"Meine Herrn, ich bitte Sie nun jetzt um die Kasse."(募金をお願いします。)と語り、まずはクルップ氏が筆頭を切って大金をナチスに献金した。勿論、フリックも政治献金を行った。翌年、ナチスが政権を確保すると、当時の主要な経済人は首相官邸に呼ばれ、「選挙戦で語った大企業の国有化は行わない。その代わりに労働運動を抑える。」と、ヒトラーは政治献金を行った大企業に、まずは最初の報償を払った。

ナチスが政権の座に就くと、ユダヤ人企業家に脅しをかけて、その会社、工場をドイツ人に売却するように圧力をかけ始めた。フリックはこの絶好の商売の機会を逃したくはないが、直接、ユダヤ人から会社、工場を買ってしまうと、後で(ナチスが戦争で負けたら)非難される可能性があることまで見通す先見の明もあった。そこでまずは政府がユダヤ人企業家から会社を「買取り」、その後、フリックが政府からこの会社を買い取るという方法を取った。直接買った(買い叩いた)方が安かっただろうが、この「政治的に危険は橋は渡らない。」という慎重な態度、そして余計に払った金は、戦後、十分に元が取れた。ナチスがドイツ空軍の創立をこっそり始めると、この仕事は秘密維持の為もあってフリック財閥に一任され、フリック財閥はその(まだ浅い)歴史上、最大の依頼を獲得、敗戦まで飛行機の他に弾薬、爆弾などを生産した。

嗅覚のするどいフリックは1944年にはドイツの敗戦は不可避と正しく判断すると、過去ナチスに贈った政治献金の領収書の焼却を始めた。さらには「ドイツ降伏後、東ドイツはソビエトに占領されてしまう。」と、これまた正しく判断、会社の本拠をベルリンからデュッセルドルフに移した。さらには持ち前の合理性で、戦争犯罪人として財産を没収されることを予想して、財産の90%を両息子に譲渡した。ドイツが降伏すると、フリック財閥の財産は、息子名義だったにも関らず、その75%を占領軍に没収されてしまう。フリック自身は米軍に逮捕されて、ナチスに積極的に協力した廉で戦争犯罪人として訴えらた。もっとも裁判では(他のドイツ人同様に)被害者の役を見事に演じることに成功。ユダヤ人財産没収の件でも、ユダヤ人所有の会社を直接買収していなかった事が幸いして、有罪判決ながら軽い懲役刑で済み、すでに1947年には恩赦で出獄している。

この時点でフリックはすでに64歳。戦争犯罪人の判決を受けて、財産は占領軍に没収されたまま。普通の人間なら、定年退職をする年齢だし、もうあきらめてしまうことだろう。しかし、フリック帝国の本当の発展はここから始まる。まずアメリカ軍に没収されている財産の取り返しに着手する。この分野で専門家を雇うと、当時発足したドイツ政府へ(賄賂を贈って)コネを作ると、ドイツ政府がフリック財閥整理について米軍と交渉を始めた。当初はフリック財閥の解体を主眼に置いていた米軍だが、朝鮮戦争の勃発でこの態度が180度転換する。米軍は戦争継続の為、フリック財閥が製造する高品質の鉄鋼が喉から手が出るほど欲しい。そこで形だけのフリック財閥の解体で話が落ち着く。つまり財閥に属していた炭鉱分野を他の会社に売却するという形で満足することにした。こうしてフリック財閥は炭鉱事業の売却により(税抜きの)2億5000万DMのも現金を手に入れた。この例は、窮地をチャンスに変えてしまうフリックの不思議な才能を如実に示している。

この金でフリックは、(まだ安い)ドイツ企業の株を買い漁った。代表的なところではダイムラーベンツ。フリック財閥は、一時90%ものダイムラーの株式を所有しており、事実上、ダイムラーベンツの所有者だった。その他にもレオパルト戦車で有名な軍需産業Krauss-Maffei、鉄鋼会社のBuderus、ダイナマイトで有名な化学会社Dynamit Nobelなど、フリック財閥の傘下にあった会社は300社を超え、とてもここでは書き切れない。こうしてかっての戦争犯罪人フリックは、64歳から人生を再スタート、70歳にして、「ドイツ一の金持ち」となり、ドイツ政府から勲章までいただいている。こうして何も悩みがないように思えたフリックにも、大きな悩みがあった。一代で帝国を築き上げただけに、他人の判断力を信用する慣習がなく、跡継の育成を怠った。息子は3人居たが、一番才能がありそうだった2番目の息子は、他のドイツ人同様に従軍、戦死してしまう。長男は才能よりもエゴばかりが発達して、とてもではないが財閥を任せられる裁量がない事は親の目にも明らかだった。そこでこの長男に財閥の一部門を任せてエゴを押させようとするが、この長男は、「財閥をよこせ!」と、聞く耳を持っていない。挙句の果てには実の親のフリックをデュッセルドルフの裁判所に訴えて、フリック財閥を法廷闘争により手中にしようとした。しかし、この億万長者の息子は裁判で負け、フリックからは財産の相続権を取り上げられ、ただの息子になった。

こうしてフリックは財閥の将来を最後の息子、Friedrich Karl Flickに託して隠居するが、89歳で死去するまで会社の重要な決定はフリック自身が下していた。後を継いだフリック二世だが、ぱっとしなかった。フリックのような親を持つと、どんなに頑張っても親に叶わない劣等感にも悩まされていたようだ。フリック二世は会社の工場を近代化する為にまとまった資金が必要になった際、銀行から借り入れるという手段を取らず、会社が保有していたベンツの株を20億マルクでドイツ銀行に売却した。本来ならば半分が税金として国庫に収まるものだが、ドイツに数多いお金持ちへの優遇措置を利用してこの株式売却は、「ドイツ経済の発展に貢献する投資」であると主張、1ペニッヒも税金を納めることなく、巨額の現金を手に入れてしまう。これを不審に思った税務局がフリック社、及びマネージャーの自宅を強制調査すると、当時のドイツのトップの政治家、Franz Josef Strauss、Helmut Kohl、そして首相になり損ねた男で取り上げたRainer Barzelなど(その他、多数)に多額の賄賂が流れていた事が発覚してしまう。これが有名なフリック事件で、何人かの政治家の政治生命が尽きることになるが、同時にこれがフリック財閥の「終わりの始まり。」となる。

フリック二世には親が作った会社に愛着はなく、連日フリック事件が報道されて自分の顔、名前が犯罪人のようにさらされることに我慢できなくなった。そこで安易な道を選び、フリック財閥、340あまりの企業、従業員4万3千人から成る、をドイツ銀行に売却する事にした。有り余る金を手にすると、フリック二世は大嫌いだったデュッセルドルフを離れ、オーストリアに逃げるとここで(ふんだんにある資金で)国籍を取得、新しい奥さんをもらうと死去するまで毎日趣味(狩り)に没頭した。この大財閥のあっけない終焉は、一代で築き上げた大帝国は、(的確な跡継ぎがいないと)やはり一代限りで終焉を迎えると言う、まさに見本のような例であった。そうそう、余談だが、90年代になると米国で強制収容所などで生き延びたユダヤ人などが、ドイツ企業に対して戦争賠償裁判を起こした。これにはほとんどのドイツの大企業が含まれて(訴えられて)いたが、一社だけ欠けていた。そう、フリック財閥である。この時点ですでにフリック財閥は売却された後なので、賠償を請求できなかった。勿論、良心の呵責があるなら「フリックの子供達」は任意で、ナチス被害者公庫にお金を寄付できたが、有り余る資産にも関らず、一人の例外を除き、誰もお金を払い込んでいないそうだ。


戦争犯罪人から、


ドイツ一の資産家へ。




東に諸葛亮孔明あり、西にFranz Josef Straussあり。(11.05.2010)

ドイツの政治家で、首相にはなれなかったが一番有名な政治家と言えば、後にも先にも、いい意味でも、悪い意味でも、Franz Josef Straussしか居ない。ドイツの戦後(政治)史を語る上で外す事ができない人物なので、この辺で一度取り上げておきます。

シュトラウスは、まだ第一次大戦中のミュンヘンにて生まれた。バイエルン州の伝統にそって、厳格なカトリック教徒、そしてバイエルン州独立分権派として育った。肉屋の息子として生まれたが、知性に恵まれ、ミュンヘン大学で古文献学を学んでいる。第二次大戦中は幸運にも砲化(自衛隊では特科)に配属されて、歩兵化(自衛隊では普通科)や工兵化(自衛隊では施設化)のような悲運な運命を避ける事ができた。1941年のバルバロッサ作戦ではロシアにて、共産党政治局員に惨殺されたドイツ兵捕虜の屍の山を目撃、これがきっかけで生粋の反共産主義者になる。東部戦線では両足が凍傷にかかり故郷に送り返されるが、これまた幸運にも両足を切断しないで済んだ。病療後、中尉に昇進して砲兵学校に配属され、ここで敗戦を迎える。

バイエルン州独立派だった為、ナチスのイデオロギーには関心を見せなかったのが幸いして、「政治的に害なし。」と判断され、捕虜収容所から早期に開放される。解放後、大学で文献学を学んでいたのがこれまた幸いして、米軍に通訳として「採用」される。このとき占領軍の通訳として、地方議会で積んだ経験がきっかけとなり、CSUが1946年にバイエルン州で結成される際これに参加、南バイエルンの片田舎にて、政治家として最初の一歩を踏み出している。 国会議員になったのは1949年、そして1953年にはアデナウアー政権下で早くも大臣の要職についているから、まさに彗星のような出世だ。この出世を助けたのは、演説の才能、正確に言えば、語彙の豊富な罵詈雑言。反対意見を聞く忍耐力に欠けているため、誰かが気に入らない意見を言うと、"Ratte"(そのまま訳せば「どぶねずみ」という意味だが、裏切り者という意味もある。)や、"Schmeissfliege"(汚い言葉なので意味は省略。)などと罵詈雑言を浴びせて、誰かを侮辱するのが上手かった。さらにはマッカーサー顔負けの「共産主義嫌い」もアデナウアーに気いられたようだ。1955年には核問題の大臣に任命されて、ドイツ国内での核エネルギーの利用を推進した。ドイツに核発電所が建設されたのも、氏の「説得力」による。
          
その後は、ドイツ軍の核武装に「尽力」、1958年には国会にてドイツ軍の核武装が正規に可決されたが、この立役者は言うまでもなくシュトラウスだった。核分裂の発見でノーベル化学賞を受賞した科学者Otto Hahnなどは、ドイツ軍の核武装に反対したが、シュトラウスの罵詈雑言の前には、理性(知性)に訴える声は立ち消えしてしまった。ちょうどこの頃、シュトラウスは法律を無視して、イスラエルへの「過去の罪の償い」の目的で、ドイツ兵器へのイスラエルへの無償供与の秘密協定を結んでいる。国会も通さないでよくもそんな協定が結べたものだと、今の視点では驚くばかりだが、当時は首相のOk(黙認)があれば、何でもできた時代であった。この首相の信頼を利用して、シュトラウスはドイツ軍へのさまざまな調達決定に「尽力」している。

シュトラウスの名前は、その罵詈雑言だけでなく、その数々の汚職でも有名だ。明きからになっただけでも、まずはFibag-Affaere。ドイツに駐屯する米軍の住宅施設の建設に際して、シュトラウスが取締役に就任している会社に建築依頼を出したスキャンダル。その次は、Onkel-Aloys-Affaere。その名の通り、シュトラウスの叔父(Onkel)のアロイスの会社に軍事品の調達を発注したスキャンダル。その後には、HS-30スキャンダルが続く。ドイツ軍再軍備に際して装甲車を調達する事になったが、車両はHS-30に選定され、この調達依頼はこれまで原付を生産しており、戦車など生産した事がない全く無名のスペインの会社に出されてしまう。届いた装甲車は、故障ばかりで全く使えない無用の長物だった。そしてシュトラウスの汚職歴のKroenung(王冠)を飾るのが、ここでも紹介したスターファイタースキャンダルだ。普通の政治家なら、シュトラウスが行って、明らかになった汚職のひとつだけで政治生命を絶つのに十分だったろうが、シュトラウスは雑草のような生存力を発揮して生き延びた。

1961年にはシュトラウスは長年待っていた役職、国防大臣に就任するが、上述のスキャンダルが徐々に明きからになり、早くも翌年、1962年には国防大臣からの辞任を余儀なくされている。これでシュトラウスの政治生命が絶たれたと思ったら、大間違い。ここから出世がまだ続くのだから、もう感心するしかない。1966年には大蔵大臣に就任して、残す重職は首相の座のみとなった。政権がSPDに移ったので、シュトラウスはバイエルン州に引っ込んで、まずはCSUの党首及びバイエルン州知事に就任して、首相になるチャンスをじっと伺う。そのチャンスはようやく1980年にやってくる。

「首相になり損ねた男」で紹介したバーッエル氏の退陣後、ヘルムート コール氏がCDUの党首の座につき、1974年の総選挙ではSPDの党首兼首相であるシュミット氏に挑む。選挙ではSPDよりも多くの票を取って第一党になったものの、FDPがSPDと連立政権を組んだ為に過半数を取れず、戦略上の敗戦を喫する。そこで1980年の総選挙では、CSU党首のシュトラウスが、シュミット首相に挑戦することになった。この選挙戦は、饒舌な政治家二人の対決と相成ったので、かなりの激戦になった。まずシュトラウスは、お家芸の罵詈雑言を浴びせるが、シュミット首相も饒舌な演説家である為、上品ながらかなり手厳しい非難で応酬した。シュトラウスは演説で「熱く」なると、もう見境がなくなる。数々のスキャンダルでわかるように舵につかせると、平気で法律を無視するので、どこに進むかわからない兆候があった。これと比してシュミット首相もその毒舌には定評があったが、冷静に計算された毒舌であり、感情に任せて何かを口走ってしまうということはほんどなかった。

多分、この気性の違いが選挙の行方を決めた。選挙前に有名なオクトーバーフェストにてテロがあり、爆弾が爆発、13名が死亡、211人が手足を失う大怪我を負った。シュトラウスは「地元」でのテロに激怒、何の証拠もないのにRAFをテロの陰謀者と指名、政府与党、特に内務省の能力を得意の罵詈雑言で攻撃したが、数日後には右翼テロリストの攻撃で、RAFとは何の関係もない事がわかってしまう。これが原因か、選挙ではCDU&CSUは第一党の地位は守ったものの、先回より4%も得票数を落とす結果となる。この敗北後は、バイエルン州に戻って地方政治に専念した。短期間、上院での議長になるなど全国政治に復活することはあったが、全国政治の舞台で活躍することはなかった。ただ、スキャンダルは相変わらず、途切れる事がなかった。例えばシュトラウス自身、パイロットの免許を持っていた為、個人飛行家への航空燃料の無税化を提唱するなど、最後まで自分の利益になることしか提唱できない政治家だった。

氏は1988に死去したが、氏の死去後もスキャンダルが絶えなかった。氏の葬式に愛人が参列しようとしたが、家族に追い返されてしまうという光景がテレビで中継された。さらにはぱっとしない息子の将来を心配したのか、数々の賄賂で受取人に息子に指名していた為、武器商人が「Maxに○万マルク」と手帳に記入していたが、これが検察の手に入ってしまう。賄賂でも正直に税金を払えば、正当な収入だが、賄賂だけにこれができない。このため、息子のMax Strauss氏は脱税で訴えられてしまう。問題を起こした張本人が一度も訴えられることなく、その死後、周囲の人間が訴えられるというのも珍しい。諸葛亮孔明は、その死後も敵を恐れさせたが、シュトラウスはその死後も、スキャンダルを提供して周囲に迷惑をかけ続けえており、ドイツの政治を語る際、どうしても避けて通ることのできない政治家だ。
 


演説はうまかった。そして(何故か)女性に人気があった。







Witwenmacher  (14.04.2010)

第二次大戦末期、ドイツの上空にはこれまで見たこともない戦闘機が次から次へと出現して、英空軍、米空軍のパイロットを大いに驚かした。代表的な所ではロケット推進のMe163、通称、Komet(彗星)や、初めて実戦に投入されたジェット戦闘機Me262などだが、これらはドイツが当時、研究開発していた飛行機のごく一部に過ぎず、あと半年戦争が長引けば、さらに新型の戦闘機が登場、ドイツ空軍がドイツが制空権を回復に成功したかもしれなかった。戦後、ドイツの研究開発の発展具合を目の辺りにしたOSS将校は、「ドイツは技術では連合国側に10年は先を行っていた。」と、漏らしている。それだけに、ドイツが開発した技術をひとつ残らず米国に持ち帰ろうと、試作機、製造計画書の押収には特に熱心だった。こうして米国の手に渡った機密のひとつにFocke-Wulf Ta 183がある。初回飛行は1945年5月に予定されていたが、ドイツの降伏にて初回飛行を果たせず、研究開発だけで終わってしまった。

と思っていたら、研究開発は戦後も続けられた。ドイツの敗戦により失業することになった超一流の飛行機設計家のほとんどは、あのHorten4を設計したHorten兄弟も含め、研究資料を抱えアルゼンチンに移住、ここで研究開発を進めた。Ta 183を開発したTank博士もアルゼンチン政府の招きで他の技術者と一緒に移住、研究開発を進め、戦後、世界で最初のジェット戦闘機、Pulqui II (FMA I.Ae. 33)を完成させ、アルゼンチン空軍は、世界で唯一のジェット戦闘機を擁する空軍を持つこととなった。同時期、ソビエトではあの有名な飛行設計家Mikojanがミグ15を開発、ソビエト空軍に配備されているが、外見はPulqui IIと瓜二つであり、「原型モデル」が何処にあったのか、推測するのは難しくない。さらには全く同じ時期に米国でF-86が開発されているが、これも外見はPulqui IIと瓜二つ(それとも三つ?)であり、どれだけドイツの技術が戦後の戦闘機開発に貢献したのか、よくわかる例である。

朝鮮戦争初頭、米国はP-80を戦闘に投入したが、北朝鮮の戦闘服を着たロシア人パイロットの操縦するミグ15の格好の標的となった為、最新鋭のF-86を投入することを決定、こうして同じ原型から開発されたふたつの飛行機が朝鮮半島で対決する事となった。アメリカ人は今でも決して認めないが、性能ではミグ15が最高速度、上昇能力でF-86を上回っていた。F-86はパイロットの訓練度高さとミグには装備されていないレーダーで、なんとかこの劣っている部分を補うことができたが、敵が性能において優れた戦闘機を持っているとい事実は、米軍にとってショックだった。この教訓から、米国空軍はミグに勝てる飛行機の開発を(朝鮮戦争の長期化を予想して)大急ぎで進めるように軍事産業に依頼した。その結果、完成した戦闘機がF-104、通称、スターファイターだった。
          
この飛行機は1953年に迎撃機として研究開発が始まり、1954年には初回飛行を済ました。このような短期の開発期間は、大戦末期のドイツでハインケル162が、開発依頼からたったの69日間で初回飛行を済ました例を除き、世界で2番目に短い開発期間であった。F-104は、右上の写真を見てもわかるように最高速度を上げるために、翼は最低限必要な大きさで(つまりかなり小さく)、飛行機自体も空気抵抗を最低限に抑える弾丸のような形をしていた。お陰で公式には「最初に音速を破る通常配備された戦闘機」となったが、肝心の性能は、似たような環境下で製作されたハインケル162同様に、お粗末な物だった。長細い形状の為、水平方向のドッグファイトでは一気にスピードを落とすため、ミグの敵ではなく、訓練では急降下か急上昇のドッグファイトに敵を誘い込むように指導された。しかし製造上(設計上)の欠陥、天気が悪いと電気系統は故障ばかり、脱出シートは欠陥物で命を落とすパイロットが出て、エンジンが急に推進力を失う事例が多発、翼が短い為、推進力が不足すると旅客機のように空中に浮くことができず、すぐに墜落する、などは、幾らパイロットを訓練しても、失くす事はできなかった。さらには燃料タンクが小さく、作戦区域が限られてしまった。これを補う為にには予備の燃料タンクをつけるので、肝心の速度が犠牲になった。

こうしてミグを打ち落とす戦闘機を製作した筈なのに、またしてもミグの格好の餌食になる飛行機を作ってしまった。印パ戦争では、米軍はパキスタンにF-104を提供したが、インド空軍が擁するミグ21にいとも容易く撃墜されたしまった。米国空軍はこの辺で(訓練中に事故が多発した)F-104を見切って、配備を中止、次期の戦闘機の開発にとりかかったが、ロッキード社には、「それはちょっと困るんですけど?」という事態になった。比較的短期の開発期間とは言え、多額の開発費用を投入して開発した飛行機が、「配備中止。」では、大赤字である。そこでロッキード社は海外のNato加盟国へこの役立たずの飛行機を納入することに、最後の商売チャンスを見る。かと言って欠陥機なので、そう簡単には納入契約が取れるものではない。こうしてロッキード社から、鞄に大金を詰めた社員が世界各国に飛び、政治家、軍人を買収して、ほとんどすべてのNato加盟国にF-104を売り込むことに成功する。

ドイツ空軍に配備されたStarfighterは全部で916機に昇り、戦後のドイツでもっとも金のかかった装備である。今、配備が始まっている最新鋭戦闘機、オイロファイターの装備数がたったの180機であることを考えれば、どれだけロッキード社の買収作戦が効果的だったのか、よくわかると思う。さてドイツに配備されたF-104は1991年に後続戦闘機にとって変わられるまで、その1/3の292機が墜落、ドイツ空軍のパイロットだけで116名が「二階級特進」を果たしている。(墜落した飛行機の犠牲となった民間人の数を加えると、かなりの数に昇る筈だがドイツ政府はこれを機密扱いして、公開を拒んでいる。)。このためスターファイーターは、ドイツ空軍では Witwenmacher(未亡人製造機)、あるいは fliegender Sarg(空を飛ぶ棺桶)の愛称で親しまれれた。

墜落事故が相次ぐ中、最初の頃は、「お国の為だから。」と我慢する遺族が多かったようだが、欠陥機により夫を亡くした未亡人の一人が勇気を奮って、米国でロッキード社を相手に損害賠償訴訟を起した。すると彼女はドイツ国内にて「非国民」扱いされて、秘密警察(ゲシュターポ)の現代版、Verfassungsschutzから脅しを受けるなど、国をあげての嫌がらせに遭っている。しかし「どうして夫が死ぬ事になったのか、その理由が知りたい。」と、幼い子供を抱えて女手ひとつで、ドイツ政府と強大な米国軍需産業を相手に頑張った。1966年には始めてDer Spiegel紙がスターファイーターの欠陥について報道すると大きな話題になったが、時の国防大臣、Kai-Uwe von Hassel氏は、「スターファイーターの性能には、文句を付ける謂れはない。」と、これを一蹴する。(証明はされていないが、氏も賄賂をもらっていたようだ。)ところがその後、氏の息子がスターファイーターで訓練中、墜落して死亡してしまう。悲嘆にくれた未亡人が、(元)国防大臣の「要請」を蹴って、先に述べた未亡人と共に、ロッキード社に対して、損害賠償訴訟を起こすと、流石にドイツ国内でも「国を守る為だから仕方がない。」から、「何かおかしいじゃないか。」という風潮に変わってきた。

原告側(未亡人)は、ドイツ政府に墜落事故の調査書を公開するように求めるが、ドイツ政府はこれを拒否。しかしドイツ政府の事故調査書は、製造元のロッキード社にも渡っているので、この書類を公開させて、事故の原因がパイロットではなく、飛行機にあった事(つまり欠陥車である事。)が証明できるかどうか、が争点になった。ロッキード社にしてみれば、社内機密が外部に漏れなければ、勝訴できる確立が高いのだが、裁判が国際的な注目を浴びると、今後の商売に不利と判断、原告側に示談を提示する。原告側も事故の調査書が公開される可能性が低いことを熟知しているので、この示談に応じてしまうが、もうちょっと頑張っていれば勝訴できたかもしれなかった。

ロッキード社の欧州顧客管理担当のHauser氏が、何を血迷ったか1975年にStern誌とのインタービューで、スターファイターの納入契約を取る為、「CSUに1000万ドルの賄賂をばら撒いた。」と、語ってしまう。これが発端となり、次から次へとロッキード社の賄賂ばら撒き作戦が暴露され、ロッキード社の民間機(L-188や、Constellation)のルフトハンザへの納入に際して、(当時国防大臣の)Franz-Josef Strauss氏に130万ドイツマルクが支払われたことが査問委員会の調べて明らかになる。こうして首相になる事を夢見ていたStraussの夢は(一時的に)潰え、この買収事件はロッキード事件として有名になるが、イタリア、オランダ、そして日本でも同じような事件の展開を見せているので、ご存知の方も多いと思う。日本では当初、F-104の自衛隊への採用が見送られたが、その後、ロッキード社の賄賂をもらった政治家のてこ入れで採用なっている。

ドイツ空軍ではこのスターファイターの事件がトラウマになっており、その後、ドイツ空軍が採用する戦闘機、F-104の後続機、Panavia 200(通称Tornado)にせよ、今、配備をしているオイロファイターにせよ、すべてエンジンを2基積むモデルになっている。エンジンが2基あれば、スターファイターのようにエンジンの一基が故障しても、すぐに墜落することはない。不思議や不思議、F-104の欠陥を公式には認めていない米国でも、その後、採用された戦闘機はF-4からF-22まで(唯一F-16を除き)エンジンを2基搭載するモデルばかりである。


(生き延びた)パイロットには概ね好評だったF-104。ただし戦闘機としての能力は低く、ドイツ空軍では戦闘爆撃機として採用された。







首相になり損ねた男。  (06.04.2010)

歴史の気まぐれで、本来なら誰にも知られずに人生を終えただろう人物が、ひょんな事から有名になり、あるいは出世して歴史に名前を残す事がある。ヒトラーやムッソリーニなどがその典型的な例。これとは逆に、あと一歩のところで歴史のページへの登場を閉ざされる人物もいる。こうした人物の多くはすでに忘れさられてしまっているので、ここで紹介することができないが、今回は歴史から完全に消えてしまう前に悲運なドイツの政治家、Rainer Barzel氏について紹介してみたい。

Barzel氏は、第二次大戦中、空軍のパイロットとして活躍、有名な黒海のセヴェストーポリ要塞の陥落間前に、自身の危険を顧みず(速度が遅く、撃墜されやすい)輸送機でドイツ兵の救出に飛び、退路を断たれたドイツ軍兵士40名を要塞から救い出した。運良く大戦を生き延びた氏は、戦後、ケルン大学で法律を学び、1959年のドイツ再軍備の際は、予備役の海軍中尉として軍籍を所有している。政治家になったのは1954年で、ノルトライン-ヴェストファーレン州にて地方政治に関る。当時は元兵士の多くがそうだったように「左より」だったが、東欧の共産化により次第に社会主義的思想に嫌悪感を抱き、今度は「右より」になった。CSUの有名な政治家、Franz Josef Straussと「自由を救う会」を創設、「赤狩り」を始めるが、社会非難を浴びると会から脱退した。この辺に「機を見るに敏」な(うわべだけの)政治家の要素が見て取れる。何はともあれ、これで名前を売ったようで、1960年には国会議員に当選する。

氏は国会議員として、その右翼ぶりを発揮、「死刑の再導入」と、「(プロテスタント地域の)再カトリック化」を超え高に求めると、非難と共に共感を得て、党内でその地位を確保する。そして国会議員当選6年後の1966年には、当時首相兼党首だったLudwig Erhardに挑戦して党首に立候補するほどの「実力者」になった。もっとも今回は党内選挙で破れるが、「党首代理」という職務を創設して、初代の党首代理に就任したから、この「謀反」はある程度、成果があった。この頃本格化したベトナム戦争の戦費捻出に余念のない米国大統領Johnsonが、ドイツに対し「占領費用」の大幅上乗せを要求、Erhardがこれを呑み税金を上げると、ドイツは戦後最初の経済不況に見舞われ、Erhardの人気は地に落ちた。
          
「他人の不幸は己の幸福」という政治家のモットーの通り、このエアハルトの「失策」は、 バーッエルに最初の首相になる機会をもたらす。エアハルトの増税に反対して連立与党のFDPが連立政権を離脱すると、政府は過半数を失い、エアハルトは責任を取って党首及び首相を辞す。 バーッエルは党首選挙に立候補するも、党の過半数は穏健派のKurt Georg Kiesingerを党首に選び、またしても党首になり損ねる。キージンガー(ドイツから脱出して米国で外務大臣になったキッシンジャーと混同しないように。)は野党だったSPDと最初の大同連合を組み首相に就くが、大戦中、ナチ党に所属していたことが暴露され、3年後には政権及び党首の座を失いう。

「他人の不幸は己の幸福」という政治家のモットーの通り、このキージンガーの「過去の失策」は、 バーッエルに2番目の首相になる機会をもたらした。党首選に立候補したバーッエルは対立候補のHelmut Kohlを破り、「3度目の正直」で党首に就任する。しかし政権は(今度は)SPDと組んだFDPの連立政権に移っており、バーッエルは野党の党首として、連立政権に首相に就いたWilly Brandtを政権の座から蹴り落とす事に専念する。この頃は運命がバーッエルに微笑んでおり、その機会は思っていたよりも早く訪れる。ブラントはこれまでの西ドイツ政府の政策を180℃転換する東ブロックとの対話政策を実施、ポーランドにあるかっての「ワルシャワ ゲットー」を訪れた際、有名な「Kniefall」で謝意を表明すると、ドイツ国内から「いくらなんでもやりすぎだ!」と、非難轟々。(過去の過ちを認めて素直に謝ると、国内から非難を受けるのは日本だけでない。)勿論、ブラントを支持する良識の声もあったが、当時はこれは少数派。

「他人の不幸は己の幸福」という政治家のモットーの通り、このブラントの「失策」は、 バーッエルに3番目の首相になる機会をもたらした。というのもSPDとFDP党員がブラントの政策に反対して次々と連立政権を離脱したからだ。これを見たバーッエルは「いざ、鎌倉!」と、国会にて不信任投票を要求する。計算では僅差ながら過半数が「反ブラント派」なので、バーッエルは首相の座の獲得は時間の問題と思われた。ところがいざ採決してみると不信任案の過半数に2票足りず、バーッエルはあと一歩のところで首相になりそこねる。ブラントはここに起死回生のチャンスを見て、国会を解散、総選挙を宣言する。これを迎え撃つはCDUの党首バーッエルで、最後の首相になるチャンスを賭けて、CDUの首相対立候補として選挙戦に挑む。

当初、ブラントの東との対話政策は国民の反発を食らったが、戦争を嫌悪する新生代から賛同を受け初めており、総選挙ではブラントが圧勝、SPDは初めてCDU/CSUよりも多くの得票数を獲得する。バーッエルの選挙戦での大敗は、 バーッエルではCDUは政権を獲得できない事実を証明することになり、バーッエルは党首から辞任、バーッエルと仲が悪く、先回の党内選挙で敗れたヘルムート コールが新党首に就任する。その後、バーッエルは国会議長に選出されるなどしてしばらく政治の表舞台で活躍するが、献金(賄賂)問題が表ざたになると、氏の名前が賄賂のリストに書かれた居た為、これを否認しても説得力がなく、国会議長を辞任する羽目になる。

こうして政治の表舞台から消えていったバーッエルだが、あと一回だけ政治の舞台に登場することになる。東ドイツの崩壊(吸収)により、国家保安警察のファイルの解析が始まった。そこには1972年のブラントの不信任案決議に際して、当時にのSED(東ドイツの独裁政党)党幹部は、大きな不安を感じていたことが明らかになった。指をくわえてこの不信任案決議を看視すれば、東ブロックとの対話を拒絶する右派のバーッエルが、不信任案を通してしまい、東ドイツを認知するブラントが首相の座から蹴り落とされてしまう。そこでSEDがスパイを使ってCDUの党員に5万DM(2万5千ユーロ)の賄賂を贈り、この不信任案にNeinと投票するように工作した。抜かりのないドイツ人らくこの「献金」を送ったCDUの政治家の名前は保安警察のファイルにしっかり明記されており、2名のCDU党員が東側に「買われた」事が明らかになった。そう、不信任案決議で過半数に欠けたあの2票である。こうしてブラントは東ドイツ政府のお陰で政権を維持することに成功したが、その後、東ドイツスパイ事件で首相を辞任する事になるから、歴史は皮肉だ。

しかし、この東ドイツの工作で一番の貧乏くじを引いたのは、なんといってもバーッエルだ。東ドイツの工作、それもたった5万ユーロの賄賂で政権を取り損ねたのだから。氏が1984年に国会議長を辞任する羽目になった賄収では、バーッエルだけでも170万DMの「献金」であったことを考えれば、馬鹿馬鹿しいほどの小額で、一国の政策が操作された事がよくわかる事例だった。逆に言えば、優れた諜報機関があれば、比較的小額の予算でも、一国の政策を操作することが可能なことを示した事例でもあった。


CDUの党首に納まり、行け行け、どんどんのBarzel氏。



不信任投票で負けて首相を祝福するBarzel氏。



  

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