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ドイツの達人 4

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ラスト エンペラー  (29.12.2009)

ラスト エンペラーというとハリウッドの映画のせいか、あるいは日本の過去の歴史のせいか、中国の皇帝を連想する方が多いと思うが、ドイツも皇帝を権力の座から追い出す事に成功した数少ない国のひとつであり、勿論、ラストエンペラーが居た。しかし、日本ではその存在はあまり知られていない上、どのようにして退位するに至ったのか、あまつさえ退位後の人生については知る人はほとんどいない。そこで今回はドイツのラストエンペラーについて紹介してみよう。

本題に入る前に激動のドイツ史を理解しやすいように、まずはドイツの歴代皇帝について紹介してみよう。ご安心あれ、歴代皇帝といっても、たったの3人しか居ないので、長くは続かない。最初のドイツ皇帝に君臨したのは、(他に選択肢がなかったのでやむを得ず)ビスマルクを首相に登用、「怪我の功名」でドイツを統一、初の皇帝に君臨した(プロイセンの皇帝だった)ヴィルヘルム1世だ。この皇帝は(モルトケのお陰で)戦争に負けなかったので、フリードリヒ大王についてドイツで2番目に人気のある皇帝だ。ドイツを旅行して、あちこちに建っている皇帝像は大抵、このヴィルヘルム1世のものなので、我々、外国人にも親しみがある。逆に米国のジョンソン大統領のようにあまり知られていないのが、二代目の皇帝となったフリードリヒ3世だ。この皇帝は有名なプロイセンとオーストリアとの戦争の帰趨を決定したケーニヒスグレーツの戦いで、モルトケの指示通りに分散行軍、戦闘に間に合って到着、敵の側面を強襲、一気に戦局を逆転させて戦闘を勝利に導いた当時の皇太子である(詳細はこちら)。戦運には恵まれていたが、健康に恵まれず、皇帝に就任した時点ですでに(タバコの吸い過ぎで)喉頭癌の末期症状で、喋る事さえできなかった。本人にも長く持たないことがわかっていたので、99日で退位して息子を新しい皇帝に就任させたので、「99日皇帝」とも呼ばれた。

こうして3代目の皇帝の座に君臨したのがヴィルヘルム2世である。厳密を期すならFriedrich Wilhelm Viktor Albert von Preussenだが、あまりに長いのでヴィルヘルム2世と呼ぶ事にします。ヴィルヘルム2世は中国や日本の皇帝のように甘やかされて、庶民の生活から隔離して育てられることはなく、プロイセンの伝統に沿って厳しい教育を受ける。18歳でAbitur(日本の大検のようなもの)を済ませると、まず軍隊に入隊。その後、祖先が築いたボン大学で2年間学んだ後、軍隊に戻り、親衛隊から騎兵隊まで各種の兵科にて経験を積む。戦時には皇帝(あるいは皇太子)が軍を率いて、戦闘に赴くのがプロイセンの伝統であったので、将来、立派にその任務を果たせるように「プロイセン式英才教育」を受けたわけである。こうして1888年、フリードリヒ3世の跡を継いで皇帝の座に就いたときは29歳ながらも、ドイツの皇帝に必要な皇帝教育は済ませており、(摂政などに任せないで)政権を取った当初から主導権を握ることができた。
          
そのヴィルヘルム2世の「目の上のたんこぶ」が、皇帝の政策に真っ向から反対をする鉄宰相ビスマルクであった。ヴィルヘルム2世はプロイセン式の英才教育を受けたにもかかわらず、「穏健派」で、ビスマルクのように法律(Sozialisten-gesetz)で気に入らない政党を禁止したりしないで、当時、最盛期を迎えつつあった社会主義運動を(ある程度)容認する意向だった。具体的に言えば、日曜(強制)就労の禁止、妊婦と子供の夜間(強制)就労の禁止、妊娠8月目以後の妊婦の(強制)就労の禁止、っそして14最未満の子供の就労の禁止などである。今日の視点でみれば当たり前だが、当時は劣悪な労働条件で労働者は文字通り死ぬまで働かされていた。これに反対して工場でデモが起きるとビスマルクは軍隊を派遣して、武力で制圧するのが常だったが、ヴィルヘルム2世がこれを拒否したので、ビスマルクと皇帝の仲は次第に悪化していった。外交面でも二人の意見は180度食い違っていた。ビスマルクはあまり強くない軍隊を擁するオーストリアよりも、無尽蔵の人的資源を要するロシアとの同盟をドイツ帝国の存続に不可欠と見なしたが、皇帝はスラブ人やアジア人をゲルマン民族の脅威とみなし、同じドイツ人の国、オーストリア(ハンガリー)帝国との同盟を優先した。しかし最終的にビスマルクと皇帝の仲たがいを決定的にしたのはKulturkampf(文化闘争)だった。

日本でも「カノッサの屈辱」でよく知られているように、ドイツにおける(カトリック)教会の権力は絶大だった。しかしビスマルクは実際家だったのであまり信心深くない上、プロイセンはプロテスタントの勢力圏だった為、ビスマルクは教会(教皇)の権力を快く思っていなかった。当時は結婚するには教会の承認が必要だったが、ビスマルクはこれに対して、官庁が結婚を承認する(今では当たり前の)Zivileheを導入しようとした。これはカトリック教会には、その権力を蝕む許しがたき行為で、あらゆる機会、あらゆる手段を使ってビスマルクを攻撃した。穏健派の皇帝は、社会主義闘争の真っ只中、教会を敵に回すことを欲しなかった。新たな労働者の蜂起が起きた際、ビスマルクはその鎮圧に軍隊を派遣しようとするが、皇帝はこれを拒否。同時にこれ以上ビスマルクとは働けないと判断、ビスマルクは首相の座から追放される(1890年)事になり、ハインリヒ4世に継いで2番目の教会闘争の被害者となった。

ビスマルク追放後、ヴィルヘルム2世は次々に国内改革に取りかかる。上述の労働条件の改善は言うに及ばず、ドイツ帝国内に住む「外国人」、主にユダヤ人やポーランド人の認知、そして税制改革である。これによりユダヤ人は職業の禁止が解かれて、職業を自由に選択することが可能になり、ドイツ帝国内に数多く住んでいたポーランド人(やその他の少数民族)は、正式にドイツ国内に住む少数民族として認知されて、さまざまな強制(学校の授業はドイツ語で行う、標識はドイツ語でのみ表記などなど)から開放された。又、初めてドイツで収入に応じて税率が上がる賦課課税制度が採用された。さらには関税制度も改善(改悪?)され、輸入される農作物に化せられていた法外な関税を廃止された。その結果、農作物の価格が下落、多くの農民は食うや食わずの生活を強いられることになり、農民は新天地、アメリカに大量脱出、移民として定住を始めた。いい面ではドイツの工業生産能力は始めてイギリスのそれを越えて、世界一の工業生産量を誇ることになり、この頃からMade in Germanyの工業製品に対する人気が高まっていく。

順風満帆のヴィルヘルム2世の次の大企画は、(後の)海軍提督ティルピッツが提唱したドイツ帝国海軍の設立。皇帝は艦艇の製造に必要な資金を調達すべくシャンパン税を考案、ドイツ海軍は酒税で建設された。しかし、この皇帝の政策は世界の海を制する英国の不興を買う。ちょうどこの頃、アジアの小国が中国に戦争を仕掛けて大勝してしまう。ヴィルヘルム2世はこの戦争に、疎遠になってしまったロシアとの関係を改善する機会を見る。ロシアにとって極東は大事な戦略地域だったので、この地域における日本の領土拡張はロシアの利益に反する。そこでロシア政府をそそのかして、日本が中国と結んだ和平条約に干渉することにした。勿論、ロシア政府は二つ返事でこれを了解。それだけで済まず、ロシア政府はドイツとの関係が冷却したので、代わりに外交関係を強めていたフランスもこの干渉に乗るように説得して、一緒に日本に圧力をかけることにした。こうして日本に代償を支払わせて、一銭も使わずロシアとの関係改善を果たしてしまう所など、ヴィルヘルム2世の外交の巧みさには感心する。ついでながら日露戦争でもドイツは積極的にロシアを援護したし、ドイツの外交政策はリッベントロップが外務大臣に就任するまで常に反日であった事を日本人は忘れるべきではない。

その決して国際感覚がないわけでもないヴィルヘルム2世が犯した(おそらく)唯一の間違いが、第一次大戦に関する決断だ。オーストリア皇太子夫妻がサラエボで殺害されると、オーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告をする。このセルビアを助けるために同じスラブ民族のロシアは国内で動員令を発して、戦争の準備にかかると、ドイツも動員令を発動して、戦争準備に入った。というのもシュリーフェンプランでは、まずフランスをなぎ倒して、それから主力をロシアに向ける事になっていたので、ロシアの戦争準備が整う(宣戦布告をしてくる)まで待つわけにはいかなかったからだ。プロイセンの伝統では、政治は皇帝の決断で、戦争はドイツ参謀本部の決断であった。この為、戦争が避けられなくなった時点で、ヴィルヘルム2世は決断を参謀本部に託してしまう。何しろドイツ参謀本部といえば、小国プロイセンをしてドイツ統一を可能にした功績は言うに及ばず、皇帝がまだ幼少だった頃、その目前で、強大なオーストリア帝国やナポレオン3世の統治するフランスを次々となぎ倒した組織で、皇帝もこの威厳に逆らう事はできなかった。

ところがその参謀本部が誤算に継ぐ、誤算をする。まずシュリーフェンプランを「改正」した為、ドイツ軍の攻勢はパリの手前で停止してしまう。戦線が膠着した状態でロシアの大群が東から押し寄せてくるが、西部戦線から部隊を大幅に引き上げることができない。この四面楚歌の状況に、同盟国、オーストリア軍の思わぬ弱体が加わる。オーストリア軍は小国セルビアに対して一向に戦果を挙げられず、ぐずぐずしているうちにロシアの大群が、オーストリア帝国内に侵入してきた。これを「今がチャンス!」と見たイタリアがオーストリア帝国に宣戦布告、領土拡大を目指して軍を進めてきた。この情けない同盟国を救うため、ドイツ軍は貴重なドイツ軍をまずはセルビア戦線に向けて、オーストリアを助けてやる必要があった。翌年、東部戦線、タネンベルクの戦いでドイツ軍はロシア軍に手痛い敗北を見回せると、総力を決して西部戦線で攻勢に出るがヴェルダンの戦いでは、思わぬフランス軍の頑強な抵抗に逢い攻勢は頓挫する。1918年の西部戦線での最後の攻勢も失敗に終わると、部隊が各地で上官の命令に背く事件が相次ぐ。これは主に、当時ドイツ各地で猛威を奮っていた飢餓が原因だ。肉の配給がなくなると、ドイツ人は、犬や馬を食べることを強いられ、小麦粉の配給がなくなると木屑でパンを焼いたが、それでも何十万もの市民(主に子供)が餓死した。

戦争遂行が不可能になったので、ドイツは連合国側と停戦の調整に入るが、米国は軍国主義のドイツへの民主主義の導入の邪魔になる皇帝の退位を停戦の交渉に入る条件とした。しかし、勿論、皇帝は退位する気などさらさらないので、停戦交渉がまったく進まない。堪忍袋の緒を切らした当時の首相が、ラジオで「皇帝が退位しました。」と、偽の玉音放送を流すと、当然、皇帝は怒り心頭に発してこれに抵抗する。ところがこのニュースが原因で「これで戦争が終わる。」と、ドイツ国民は安堵すると、皇帝は「あのニュースは間違い。戦争はまだ続くぞ!」とは言えなくなった。状況が絶望的なのを見ると、ドイツ政府からの魅力的な提案(死ぬまで皇帝にふさわしい年金を支払う。)もあったので、「断腸の思い」で、退位を(事後)承認、オランダに亡命する。

退位後も皇帝は、亡命先のオランダで皇帝の座に復活する日を夢見ていた。かって帝国陸軍で伍長として戦ったオーストリア人がドイツで政権を取り、民主主義を廃止すると、皇帝にはヒトラーが皇帝を呼び戻すものと確信、ドイツに帰る日を一日千週の思いで待ち続けた。そしていよいよ1940年にドイツ軍が攻勢を開始して、オランダに侵入してきた。オランダ政府は老いたドイツ皇帝に親切にも「危険区域からの避難」を薦めるが、"Sie sind meine Soldaten!"「(迎えに来たのは)私の兵隊だ!」と叫んだ。ところがヒトラーは「数百万人の犠牲を払ってやっと王政をお払い箱にしたのに、これを復活させるだって?!」と、その気は全くなかった。老いた皇帝は虚しく吉報を待ち続け、1941年、失意の内に死去する。


カイザー髭をたくわえたヴィルヘルム2世。
けばけばしい軍装はどこかで見た事のあるかも




  
Der einizige echte  (07.07.2009)

歴史家の仕事は過去の資料を発掘して、これを解読、客観的に「何がどのようにして起きたのか。」を記述するのが仕事である。中には過去の資料を探してくる作業を惜しんで、その代わりに主観的な判断に頼って、伝記などを書く作家が多いが、これらは作家の仕事、つまりありもしない話しを作り上げる商売であって、歴史家の仕事ではない。しかし、ドイツでは歴史家の著作よりも作家の作品の方に人気があり、本もよく売れる(印税が入る。)ので、歴史家の多くはその本来の職務を忘れて、伝記など書く作家に「成り下がって」しまうケースがとても多い。その最たる例がヒトラーの伝記を書いたJoachim Fest氏だ。

ドイツでは「第二次大戦はすべてヒトラーのせいで、ヒトラーは狂人だった。」する説にとても人気がある。何故なら、この説ではドイツ人は加害者ではなく、ヒトラーの独裁による被害者という立場になり、責任(非難)を回避できる。そこで「悪いのはドイツ人じゃやない。ヒトラーが悪いんだ。」と(日本が侵略を進行に書き換えるように)自己弁護に熱心である。それにヒトラーはオーストリア人なので、この説はまことに具合がよろしい。そこで戦後、ドイツではヒトラー狂人説が一般的になり、誰かがこれと異なる説を唱えると、ある英国の歴史家のように、ドイツではその著作は出版禁止になった。ところが「狂人説」ではまだ不十分と感じたらしく、今度は「ヒトラーはホモだった。」と主張する説が、ドイツの歴史家の間で流行ってきた。その先陣を切ったのが、Joachim Fest氏だった。氏の説によれば、「ヒトラーは彼女が居なく友人がいただけで、その後、ウイーンで浮浪者になってから(男性のみ収容される。)浮浪者施設に住んでいる。」という事実が、「同性愛者である証拠」だと言う。それなら浮浪者や女性の縁のない技術系の会社員などの大半は同性愛者になってしまうだろうが、この説は(ヒトラーに復讐をしたい)ルサンチマンで一杯のドイツ人には受けた。以後、ドイツの歴史家は氏の意見を継承することに熱心で、その先鋒を行くのがBrigitte Hamann女史、どこかのテレビ番組が「ヒトラーの生涯」とか「ヒトラーの正体」という番組を放映すると、きまって彼女が出演して「ヒトラーはホモだった。」と唱えている。もっとひどいケースのはGuido Knopp氏。氏はドイツの国営放送が何か特集を企画すると、放送局が書いた筋書きを読み上げて、「この事件の真相はこうだった。」と歴史を改竄して恥じるそぶりもない。何故なら番組の放映後、氏の書いた本が出版されて、大いに印税が稼げるからだ。こういう歴史家を、歴史家の本来の職務を忘れた「宮廷ご用達」の歴史家と言う。

しかし嬉しいことに例外もある。本来、歴史家がすべき仕事を果たしているのは、皮肉なことにジャーナリスト作家のPeter Scholl氏(写真右上)だ。老いてもその眼光は鋭く、厳しい経験で培われた意志の強さが伺われる。氏は第一次大戦後の1924年にボッフム、つまりドイツで生まれたにも関わらずロートリンゲン出身の両親の影響の為か、フランスに傾倒していた。高校を卒業すると、(ドイツに占領されていた)フランス開放に貢献すべくこっそりフランスに侵入しようとするが、ドイツ軍の厳しい国境監監視で失敗。次はパルチザン活動でドイツ軍を悩まさせていたチトー軍に参加しようして、オーストリアまで行くがここでゲシュタポに捕まり危うく処刑される所だった。終戦を監獄で迎えると、フランス軍に志願、勇猛で知られる空挺部隊に入隊する。その後、血なまぐさいインドシナ解放戦争に投入されて戦争経験ととフランス国籍を確保する。フランスがベトナムから追い出されると、軍隊を除隊して、マインツ、ソルボンヌ、ベイルートなど世界各地の大学で政治学とアラビア文学を専攻する。その後、新聞社に記者として就職するが、あまりにアクションのない生活に馴染めなかったのか、ジャーナリストになり、紛争が起こると取材に飛び、東南アジアと中近東の専門家として知られることになった。氏の名前を有名にしたのは、ベトナム戦争の取材中にべトコンに捕獲されてしまい、またしても運良く処刑を逃れて、ベトナム戦争を始めてべトコンの目で捉える(撮影する)事が出来たのがきっかけ。これまでそのような報道は一切なかったので、各報道機関は先を争って氏の取材を買う事になる。その後、ジャーナリストとして名前が確立してからも、名前の上にふんぞりかえってテレビに出演して「宮廷ご用達」のジャーナリストとしてお金を稼ごうとせず、常に戦場に飛んで、国の政策を批判してきた。
          
例えばベトナムが1978年に大攻勢をかけてカンボジアの大部分を占領(翌79年には首都プノンペンを占領)すると、UNOなどの世界世論はベトナムを非難、カンボジアからの撤退を要求したが、Scholl氏は「ポルポトによる同国民の大虐殺を止めるには、他に方法がない。」と指摘した。この時点で西側諸国や国連は、ポルポトによる2百万人もの虐殺を見て見ぬ振りをしていた事を忘れるべきではない。あらから30年も経って、やっと今、カンボジアでポルポト派の犯罪人の裁判が国連の主導で始まっているが、茶番劇という言葉しか出てこない。200万人もの人間が惨殺されるのを黙って見て、この惨殺を止めようとしたベトナムを非難して即時撤退を求めた本人が、この戦争犯罪人への裁判を、犯罪人のほとんどが死去するまで30年も待って始めるのだから、これを茶番劇と言わずして、何と呼ぶべきか。

記憶に新しいところでは前政権がアフガニスタンにドイツ軍を送ることを決定した際、Scholl氏はこれを非難した。氏の反対は、何も戦争の実態を知らないで、戦争と聞くと条件反射で戦争反対と唱える輩と違い、ちゃんと論拠のあるものだった。アフガニスタンのように民間人とゲリラとの区別がつかない戦争では、兵器において優れる西欧諸国はその武器を効果的に投入することができず、その優位性を失う。そのような戦場に現代戦の訓練を受けた軍隊を投入しても、勝つ見込みはないとの理由だった。今のアフガニスタンの事情の泥沼化を見ると、Scholl氏の東南アジア、中近東(及びゲリラ戦)の専門家としての意見がどれだけ正しかったのか、改めて感心させられる。しかし、ドイツ政府はこの氏の意見に一向に耳を傾けてない。この6月にまたドイツ軍兵士が3名アフガニスタンで殺されると、国防大臣は、「兵士を守るため、Leopard2 戦車を派遣する。」と発表した。このドイツ政府の対応へのコメントを求められたScholl氏は、「(政府は)何もわかっちゃいない。戦車を送って勝てるなら、20年前にソビエト軍が勝利していた。現代戦の装備は、アフガニスタンでは役に立たないのだ。」と鋭い指摘をしていたが、政府はこの批判(アフガンの現状)を未だに理解していないようである。この政府の「物分りの悪さ」のツケを払うのはドイツ軍兵士で、今後もドイツ軍兵士が殺される事は避けられないだろう。

興味のある方には、Scholl氏の著作を購読されることをお勧めする。兵隊上がりにしては、かなり難解なドイツ語を駆使する上、フランス語の表現が多いので、読むのは楽ではないが、苦労しても読むだけの価値はある。果たして日本語に翻訳された著作があるかどうか不明だが、ドイツの図書館には必ず氏の著作が置かれているので、借り出して奮闘してみるのもいいだろう。
 


ドイツ屈指のジャーナリスト Peter Scholl氏




カタリーナ大帝 (17.04.2009)

近代(現代)に至るまで、アジア、西洋の違いと問わず、女性の社会的な権利はかなり限られていた為、女性が権力者の地位に就く事は少なかった。ところが歴史の気まぐれか、女性が権力者の立場に就く事があると、いい意味でも悪い意味でも、名前を残すことが多い。この意味で中国で一番有名なのは西太后だろう。日本も古代に卑弥呼が居た(らしい)し、英国ならエリザベス1世やビクトリア女王か。では、ドイツで一番有名な女性は誰だろう。著者の知る限り、一番有名なドイツ人女性はカタリーナ大帝だ。「カタリーナはドイツ人ではなくて、ロシア人です。」と指摘される前に説明しておくと、彼女は当時プロイセンに占領されていたStettin(現在はポーランド領)に生まれた公爵の娘で、立派なドイツ人。ところが、彼女はロシア人以上に、ロシア的であった。

生まれたときの名前はSophia von Anhalt-Zerbst、ロシアの皇帝のお世継ぎの花嫁として、15歳にしてロシアの宮殿に「嫁入り」する。カタリーナは「立派な」ロシア人になろうと努力を惜しまず、ロシア語を熱心に勉強、短期でほぼ完璧に習得してしまう。さらには彼女が属していたプロテスタントではロシア国民に受け入れられないと、ロシア正教に改宗してJekaterinaという名前をもらう。(日本語ではこの為、エカチェリーナ2世とも呼ばれているが、混同するので、ドイツ人が使用する名前、カタリーナを使用します。)こうした努力は、当時ロシアを支配していた女帝エリザベス1世(あの有名なピヨートル大帝の娘。正確を期すなら大帝と愛人との間に生まれた私生児。)に大いに気に入られる事になる。
          
カタリーナの問題は、エリザベス1世の息子で、お世継ぎである彼女の夫のピヨートル三世。これが本物の「馬鹿殿様」。フリードリヒ大王の熱心なファンで、大王の戦役を模倣する(戦争ごっこ)のが趣味で、女性には興味がなく(病気の為、性交ができなかったとも言われている。この点では大王と同じ。)、毎晩酔いつぶれて、結婚生活には全く役に立たなかった。1754年、カタリーナは男児を、3年後には女児を出産するが、誰の目にもピヨートル三世の子供でない事は明らかだったが、宮廷ではよくある事で「大目に」見られた。エリザベス1世も息子の馬鹿振りには十分気付いていたが、流石に、自分の息子を差し置いて他人を跡継ぎに指定する程の勇気はなかった。馬鹿息子が皇帝になってもロシアが安泰であるようにと、7年戦争では(息子の熱愛する)プロイセンのフリードリヒ大王に宣戦して、大軍を派遣する。ロシア軍がプロイセン軍を粉砕して勝利がほぼ確実になった1762年1月5日にエリザベス1世は勝利を目前にして急死してしまう。ここでロシアの皇帝に即位したピヨートル三世は、尊敬する大王を助ける為、ロシア軍を引き上げる。これに我慢ならなかったのがよりによってドイツ人、しかもプロイセン人のカタリーナだ。カタリーナは、夫、ピヨートル三世に任せていてはロシアの将来は危ういと確信、運命を自分の手に取る事を決意する。

カタリーナは新しい愛人を(近衛兵であるOrlow)見つけると、陰謀を巡らし、夫のピヨートル三世を逮捕させ、「退官」を強制する。(その後、殺害させる。)こうして1762年の7月にロシア皇帝に即位すると、これまでは禁止されていた外国人のロシア領土内への入植を許可する。これがきっかけとなり、ドイツで飢えていた農民の多くがヴォルガ河畔に入植する。又、外交面ではロシアの領土を南に広げるべく、再三にわたってトルコを攻撃(日本で習う露土戦争)する。かってのオスマン大帝国の勢いをなくしていたトルコ軍は負け戦の連続で、今日のウクライナ地方、そしてクリム半島まで失い、危うくコンスタンチノープル(今のイスタンブール)まで失う所だった。こうしてロシアは黒海を始めて勢力下に置いた。同時にカタリーナはポーランド分割で西方への領土を拡大して、ロシアはかってない程の領域を支配することになった。このカタリーナの功績を称えて、カタリーナ大帝(ドイツ語ではKatharina die Grosse)と呼ばれる事になる。尚、カタリーナは文学、絵画に大きな関心があり、生涯に渡って多大の絵画を集めたが、これが今のエルミタージュ美術館の起源になったと言われている。

* ヴォルガ河畔に殖民したドイツ人の運命は、あまり恵まれたものではなかった。大戦中は、米国に住む日系米国人のように、「敵性国民」として強制移住させられ、多くの死人を出した。その後の共産政権下でもろくな目に遭わず、経済復興を遂げたドイツ本国への帰国を希望するようになる。日本政府と違って、「血統政策」を取っているドイツ政府は、「ドイツの血が流れていれば、ドイツ語を話さなくても、ドイツ人。」という政策で、こうしたWolgadeutsche(ヴォルガ河畔のドイツ人)の帰国を奨励した。しかし数百年もロシアに住んでいると血統はドイツ人でも、考え方も習慣もロシア人そのもの。ドイツ人口の現象に悩まされているドイツ政府は、これに目をつぶってドイツ移民を受け入れてしまった為、ドイツ語ができないドイツ人はドイツ社会の異分子として扱われる事となった。移民政策の失敗に気付いたドイツ政府は、国費でドイツ移民を語学学校に送っている。この為、ゲーテなどの語学学校にはこうしたドイツ移民が多い。しかし日常会話ができる程度ではドイツでまともな職に就ける筈もなく、ドイツ移民の多くは国からの補助金で生活しており、アルコール中毒、麻薬中毒になるか、犯罪者になるケースがとても高い。この結果、Wolgadeutscheが多く住む地域は犯罪率が高く、ドイツ人はドイツ人移民がやってくるのを拒絶して、社会問題になっている。


30歳頃のカタリーナの肖像画。




Unternehmen Sunrise (22.02.2009)

「戦争を始めるのは簡単だが、終えるのはそれよりもはるかに難しい。」とはかってのシュミット首相の言葉であるが、日本の政治家も第二次大戦中に似たようなコメントをもらしていたのをどこかで読んだ事がある。これにひっかけて、「どうして戦争が起きたか、その原因を知る事は簡単だが、どうやって戦争が終結に向かったのか、その過程を知るのはこれよりもはるかに難しい。」とも言える。例えば、どうやって第二次大戦(欧州戦線)がどうやって始まったのか、これはどの教科書でも読むことができるが、どうやって戦争が終結に向かったのか、どの教科書にも載っていない。戦争映画を見ていると、「白旗を掲げて敵戦線に向かって、停戦について交渉すればいいではないか。」と思われるかもしれないが、そう簡単にはいかない。総力戦の真っ最中に白旗を掲げて敵の陣地に向かおうものなら、我の陣地を出る前に「反逆罪」あるいは「敵前逃亡」で銃殺されてしまう。実際、数多くのドイツ人が反逆罪で死刑になっている。又、運良く敵の陣地に生きて達しても、戦線と一緒に移動する連合軍の報道陣に見つかってしまい、翌日には連合軍の新聞のトップニュースになり、味方の陣地に帰った途端、反逆罪で銃殺になる。

実際の所、ドイツ軍の将官は(日本の将官と比較して)現実的で、戦争の勝ち目が全くないことをよく知っていた。敗戦が決定的になった1944年の夏以降、連合国側と停戦交渉に入ろうと努力したが、これはすべて失敗に終わった。有名な所ではドイツの元帥、von Klugeや有名なRommelなどだが、いずれの場合も責任を取らされて自殺する羽目になった。ここで活躍するのが諜報機関である。機関員とうまく接触を取れれば、停戦交渉は停戦協定が調停されるまで秘密を守る事ができる。そこで問題は、「どうやって敵の諜報員とコンタクを取るか。」という事になるが、ここで中立国が重要な役割を果たす。ご存知の通り、スイスは永世中立国。あのヒトラーでさえも、「スイスを占領するよりも中立である方が役に立つ。」と判断、スイスへの侵攻計画は実行されることがなかった。このスイス(のベルン)に1943年、米国の諜報機関(OSS)が、公に籍を置いて活動を始め、第二次大戦の終結でとても大きな役割を演じることになる。
          
当時のドイツ軍は国防軍(Wehrmacht)と武装親衛隊(Waffen-SS)に分かれていた。前者は一般の徴兵で集められた兵隊で、全体の90%を占めた。後者はナチスのイデオロギーを守護する一種のエリートで、かなり残忍な方法を取るので連合国側からは憎まれると共に、恐れられててもいた。この為、OSSでは死ぬまで狂信的に戦うSSではなく、国防軍の将官とコンタクトを取ろうと試みるが、ロンメル将軍のように、コンタクト先に向かう途上、よりによって連合国の戦闘機の掃射を受けて重傷を負うなどして、うまく行かなかった。

1945年2月末、スイスのベルンにイタリアの工場主が現れて、イタリア戦線での停戦について協議を申し入れてきた。米国側はこのコンタクトの裏にSSが居ると聞くと、全く興味を示さなかった。というのもこれまでSSのトップ、ヒムラーやカルテンブルナーから散々コンタクトがあったが、「西部戦線だけで停戦したい。東では自由にやらしてもらいたい。」という都合のいいいものであったからだ。だからこの実業家が、(総統命令に逆らっても)停戦を結ぶ用意のあるのは、命令を受領、実行することに慣れている国防軍ではなく、自由に采配を取る事に慣れているSSであると賢明に説得するが、米国側の反応はかなり冷めたものだった。ところがその数日後、この実業家がSSの幹部を引き連れてスイスに戻ってきた。鼻っからSSを信用していないOSSは代理人をこの会合に送ったが、その会合のレポートを読んで初めて興味を示した。そのレポートには、この停戦調停はイタリア戦線、SS部隊の最高司令官、Wolff将軍の承諾の元に行われていると書かれてあったからだ。Wolff将軍と言えば、SS内部では長官のヒムラーに次ぐNr.2の大物。この話が本当なら、Wolff将軍はイタリア戦線で停戦を可能にすることができる数少ない人物だ。それでもまだ疑り深いOSSは、「誠意の証明」にゲシュタポに拘留されているイタリアパルチザンの頭を釈放するように要求する。この要求を聞いた交渉相手のSSは、顔色をかなり曇らしたので米国側は「これで交渉は挫折した。」と確信、この一件はファイルに仕舞い込まれてしまった。

ところがその4日後、国境警備をしているスイスの諜報機関から、米国側の要求通り「人質」がスイス国境に届けられたと連絡が届く。さしのも米国側もこれは予期していなかったが、「直接会って、敵側の真意を確かめる価値があるかもしれない。」と判断、チューリヒにて始めての秘密会合が開かれる。この会談に出席したWolff将軍は、無駄な流血を避ける為、イタリア戦線で停戦(無条件降伏)を申し入れてきた。これにはOSS側(後にCIAを築き、MR.CIAと呼ばれることになるダレス氏)も大いに驚いた。ここで問題になったのは、よりによって正規ドイツ軍の停戦である。Wolff将軍はSSの将官であるからSSの部隊は掌握しているが、ドイツ軍正規部隊は掌握していない。この為、イタリア全戦線での停戦を可能にするには、ドイツ軍部隊、司令官のケッセルリング元帥を説得しなければならない。これが、難題。

くだんの元帥は、(ヒトラーに元帥に昇進させてもらった恩もあるので)最後の最後までヒトラーの信頼を享受していた数少ない将官の一人で、ヒトラーへの忠誠を破ることに抵抗があった。こうして、よりによってSSが、ヒトラーの命令「verbrannte Erde」に反して降伏すように、国防軍の将軍を説得するというおかしな状況が生じる。事態をさらに難しくしたのは、ヒトラーの最後の人事異動。総崩れにある西部戦線を立て直すため、総統の信頼の厚いケッセルリング元帥がイタリア戦線の任務から開放されて、西部戦線の総司令官に任命されてしまう。イタリア戦線にはVietinghoff大将が派遣されてきたのだが、この将軍は典型的な国防軍の将軍で、無条件降伏を拒否、こうして停戦交渉は一度座礁してしまう。その後、連合国側の攻勢でイタリア戦線はスイスチーズのように穴だらけ、ドイツ軍はポー河の戦線までの撤退して、戦線を整理しようとするが、「1センチたりとも撤退は許さない。」とヒトラーからの命令が届くと、さしものVietinghoff大将も愛想が尽きる。将軍はイタリア戦線の国防軍を代表して、1945年4月29日に停戦協定にサインすることになる。

ところが、イタリア戦線の停戦の話を聞かされた元帥は怒り狂う。Vietinghoff大将を直ちに解任して、別の将軍を派遣、イタリア戦線でどうしても戦闘を継続しようとする。この将軍も戦争の継続の無意味さを理解していたが、「元帥の命令がないと、降伏命令は出せない。」という頑迷振り。国防軍の軍人は上から下まで命令を受領して、これを遂行することしか脳がないので、命令が無い限り、自分で決定する事ができないのだ。しかし、ここで天の恵みか、4月30日にヒトラーが自殺する。これで障害はなくなったかと思いきや、ケッセルリング元帥は、連合国側と停戦交渉をした将官に対して反逆罪で逮捕命令を出す始末。これを見かねたWolff将軍は、必要とあれば武力で抵抗するように、配下にあるSS部隊に命令を出す。こうしてドイツ軍内部での武力衝突が避けれないと思われた矢先、やっと元帥も折れた。実は元帥の参謀長であったWestphal将軍は、「停戦派」で、アーヘンの司令官でった時から、連合国側と停戦に入ろうと、度々努力してきた経緯があり、アーヘンの連合国による占領後、西部戦線の参謀長に就任していたのである。こうしてイタリア戦線の全ドイツ軍に停戦命令が発令されるが、この時点ではまだ極秘扱い。1945年5月2日、英国議会にてチャーチル首相がイタリア戦線におけるドイツ軍の降伏を発表(同日12時発効)すると、世界中が驚いた。

尚、最後まで停戦を拒否していたケッセルリング元帥だが、イタリア戦線での停戦が発表されると、「西部戦線も降伏したいから、先方の連絡先を教えてくれ。」と、こっそりWolff将軍に電話をかけてきた。こうして第二次大戦は終結に向かったのである。ちなみにイタリア戦線、ひいてはドイツ軍の降伏に寄与したWolff将軍だが、戦後は戦犯として英国の捕虜収容所にぶちこまれる。ここから開放されると、西ドイツにて戦犯として訴えられて、懲役15年の判決を受け(年金の支払いも拒否されて)、あまりいい余生でなかった。ケッセルリング元帥は英国の戦犯裁判で死刑を宣告されるが、後に減軽されて21年の懲役刑に。ところが1952年には恩赦で釈放され、„Soldat bis zum letzten Tag“ などの回想録を出版してそこそこの成功を収め、元帥の年金もあったので、悠々自適名余生を送った。

蛇足ながら、日本も沖縄戦の真っ最中に、スイスのバーゼルにあった日本の出張機関を通して米国側(OSS)とコンタクトを取った。日本側は降伏の条件に天皇制と(当時の)憲法を維持を挙げて交渉に入ったが、大本営からの指令でこの停戦交渉は一方的に放棄されている。大本営がOSSの代わりに停戦交渉の仲介人として選択したのが、よりによってソビエトである。当時、日本と中立条約を結んでいたソビエトに連合国側との仲介を頼んだ方が、天皇制の維持など、日本側の要求を通しやすいと考えたわけである。間抜けなのは、ソビエトはこの時点で日本侵略を決定、侵攻軍を国境沿いに集結中であったことだ。ソビエトにしてみれば、今、日本に降伏されては領土回復(拡大)ができなくなるので、日本側に御伽噺を聞かせて引き伸ばしに入った。子供のように純粋な大本営はこれを信じて、交渉の成果が上がるまで徹底抗戦に入る。大本営にしてみれば、日本を助けてくれる筈のソビエト軍が、怒涛のように満州になだれ込んでくるのを見て「青天の霹靂」の気分だったろう。ここで大本営は再び米国側と降伏交渉に入るが、原爆投下、ソビエト軍の猛攻で成す術なく、無条件降伏となる。もし、あの時米国側と停戦交渉を続けていれば原爆投下や、満州の難民も避けられただろう。つまる所、日本政府の決定は、最初(会戦)から、最後(降伏)まで、間違いと勘違いの連続であった。このような致命的な失敗を繰り返さない為にも、世界の動向をただしく判断できる政治家が、将来、日本に現れてくることを祈るのみだ。


北イタリアの真の権力者ヴォルフ将軍とマリオネットに格落ちしたかっての独裁者ムッソリーニ。




     

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