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ドイツの達人 3

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スピットファイアを1編隊 (20.12.2008)

歴史に名を残す人に共通している特徴として、「型破りの性格。」と「(分野は限られるが)稀に見る秀でた才能。」の2点が挙げられる。こうした人物は、若い頃、間違いなく苦労をする。教師というものは、与えられたカリキュラムをこなすのが使命と考えているので、違った考え方をする生徒をカリキュラムの進行を邪魔する問題児として異端視する。(教師の本当の任務は生徒一人一人の才能を発見して、これを助長する事にあるべきだ。)この為、多くの天才は、ついぞ「発見」されることなく、「社会の落ちこぼれ」としてその一生を終えることも少なくない。ところがその人の才能を見抜く人が居たり、あるいは時代の大きな変動でその人物が才能を発揮できるチャンスが与えられると、まるで彗星のように現れて出世の階段を上って行くのである。今日、ここで紹介する第二次大戦の撃墜王、Adolf Gallandもそんな人物の一人だ。

Gallandは1912年にミュンスター近くの片田舎で生まれた。物心ついた時から飛ぶことが大好きで、田舎のグライダークラブに入会して、学校が終わり次第、(宿題もしないで)日が暮れるまでグライダーに熱中した。飛行機(グライダー)を飛ばす才能にも恵まれ、当時、グライダーの滞空時間の記録を樹立している。その後、仕事に就く年頃になったGallandにとって、考えられる職業はルフトハンザのパイロットのみ。今でさえパイロットは「夢」の職業のひとつ(少なくとも年少の頃は)だが、当時は「夢のまた夢」であった。まず当時は第一次大戦の敗戦で、ドイツ経済はどん底。ルフトハンザの路線は数えるばかりで、採用募集をしていたパイロットもわずか数人だった。にもかかわらず、Gallandはルフトハンザへのパイロット育成コースに入学を果たし、これで夢も実現したかに見えた。しかし、これからが茨の道だった。まずは訓練中に墜落事故を起こしてしまい、幸い、一命は取り留めたが、片目にはガラスが突き刺さり、ほとんど失明してしまう。
          
片目が見えない人間など、今の時代ならパイロットはおろか、車の免許さえも取れないだろう。まあ、当時もそれは同じ。違ったのは、飛行学校の校長にKarl Kollerという、杓子定規で物を見ない立派な人物が居た事だ。Kollerはガラントの飛行(機)にかける情熱をよく理解しており(校長自身、エースパイロットだったのでガラントの才能を見抜いていのだろう。)、この一件でガラントの将来を断ってしまうのはガラントだけでなく、ルフトハンザにとってもマイナスと独断、事件のファイルを引き出しのファイルの中に(verschwinden lassen)隠してしまう。ガラントは大喜びして、日夜訓練に励むのだが、運の悪い事にまた似たような事故を起こして病院送りになってしまう。これがきっかけで初回の事故の内容がばれてしまい、ガラントは眼科に送られることになった。医師はガラントの目を検査して、目玉にガラスが突き刺さったままであることを見ると驚いて、「これで物が見えるのかね?」と尋ねる。ガラントは「勿論です。全く問題ありません。」と回答するも、医師は信じられないので、視力検査をしてみることに。ところが、ガラントの言うとおり、どんなに小さな文字でも、ガラントはガラスの突き刺さった目で難なく言い当ててしまった。医師は首を振りながらも、「視力検査合格」とカルテに記入、これによりガラントのキャリアは救われる。

ドイツ国内でナチスが政権を取り、第一次大戦の撃墜王、ゲーリングが空軍の創設の指揮を執ると、ルフトハンザのパイロットは強制的にLuftwaffe(空軍)に編入されてしまう。そのドイツ空軍の最初の実戦任務は、スペイン内乱におけるフランコ軍の援助だ。当時、ドイツ空軍内部でおかしな現象が起きていた。何の前触れなく、仲間の姿が消えるのである。数ヶ月して帰ってくるとこの戦友は、すっかり日焼けをしており、とっても羽振りがいい。「一体、何処に行っていたんだ?」と聞くも、ニヤニヤ笑うだけでまともな答えが帰って来ない。しかし、この謎はすぐに解けることになる。ガラント自身が、極秘で(貨物船の船倉に隠れて)スペインに送られる事になったのである。この内乱に参加したドイツ人「義勇軍」は、コンドル旅団(Legion Condor)と呼ばれたが、その司令官として派遣されたのが、ガラントだった。ある日ガラントは共産軍前進中の為、進路を妨害する為に、街の前にかかっている橋を攻撃する旨、命令を受ける。ガラントは指揮下の編隊で早速、任務の遂行に向かうが、当時の飛行機は照準機の精度がいまひとつ。この照準機で橋のような細い目標に爆弾を命中されるのは、至難の業だった。爆撃が終わって見ると、攻撃目標の橋は一発も的中弾を浴びず、これに代わって街に大半の爆弾が落ちてしまっていた

第二次大戦初期、ドイツ軍はフランスを席巻すると、イギリスの抵抗を粉砕すべく、まずは英国上空の制空権の確保に乗り出す。この戦いはBattle of Britain(Luftschlacht um Englandというドイツ語より、英語の表現の方が有名なので今回は英語の表現を使用)として名を残すが、この戦闘のドイツ空軍側の前線司令官がガラントであった。この戦いでドイツ空軍は決定的な間違いを犯す。当初は、英国のレーダー装置の破壊に派遣した爆撃機を迎撃してくるイギリス空軍を、ドイツの戦闘機で粉砕するという二段構えの素晴らしい作戦を持っていた。しかし、ドイツの戦闘機Me109の英国上空での滞空時間は20分と限られていた為、戦闘に熱中して燃料切れになって英国、英国海峡に不時着するパイロットが続出、ドイツ空軍の損出は英国空軍よりも高かった。しかし、英国空軍のパイロット、飛行機の数は限られており、このまま戦闘が継続すると英国空軍は崩壊するのは時間の問題だった。ところがよりによってゲーリングがここで英国に助け舟を出す。英国空軍の粘り強い抵抗 と我の損害の大きさに驚いたゲーリングは、攻撃目標を抵抗の激しいレーダー装置から、抵抗のない港湾施設に移すように指令する。これにより英国空軍は、(港湾施設を犠牲にして)パイロット育成と飛行機の製造に必要な時間を稼ぐことができた。

この戦闘中の1941年、ガラントは94機目の敵機を撃墜すると、Das Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes mit dem Eichenlaub mit Schwertern und Brillantenという非常に長い名前のドイツ軍の最高位勲章を授かる。(同時に弱冠29歳にて最年少の将官になる。)この勲章を見たゲーリングは、「このダイヤモンドは屑だ。総統は戦車や野砲については詳しいが、宝石に関しては何もわかっちゃいない。今度、総統と話ておくよ。その前に、ちょっとその勲章を貸してくれ。私にはまだちょっと蓄えがあるかね。」そう言うと、この(折角授かった)勲章を自分のポケットに入れてしまう。コンドル旅団の功績を称えた勲章を同様の言い草でゲーリングに「盗まれた」ガラントは気が気ではなかったが、最高司令官の言うことには逆らえなかった。ところが数日後、カリンハルに呼ばれたガラントは大いに驚く。ゲーリングは私財を投じて、「本物の」ダイヤモンドでこの勲章の「ダブル」を作成していたのだ。この勲章を見たガラントは、今回ばかりはゲーリングの言うことを認めないわけにはいかなかった。総統からもらった勲章のダイヤモンドと、ゲーリングが作った勲章のダイヤモンドでは輝きが格段に違うのだ。こうしてガラントはこの最高位の勲章を二つも持つドイツ軍で唯一の軍人になる。

ある日、ガラントは総統命令でベルリンに呼び出され、この勲章を着けて出頭した。歩兵としての経験しかないヒトラーは、迎撃機FW-190の武装について決めかねていた。問題は中央に口径の大きな機銃をひとつ装着するか、それとも口径の小さな機銃を翼の下に二基装着するか。これについて意見を聞かれたガラントの答えは "am Besten, alles mit."(全部つけて下さい。)これを聞いたヒトラーは大笑いして、「これこそ まさに私の聞きたかった答えだ!」と賛同、こうしてFW-190の武装は決まった。この会談の終わりに、ヒトラーは、「ちょっとその勲章を見せてもらえないかね。」と言う。勲章を手に取った総統は、「これは屑だ。全く輝きがない。わかるかね?」と言い、副官が差し出した勲章をガラントに渡しながら、「少し、手を加えておいたよ。」と言って新しい勲章を(古い勲章と一緒に)ガラントに手渡したのである。(ゲーリングが総統にこの件で忠告していた。)これによりガラントはドイツ軍最高位の勲章を三つも保持することになった。もっともこの日にガラントが着けていた勲章はゲーリングが作った本物のダイヤモンドの勲章だった。総統は本当に宝石を見る目がなかったのである。

ガラントの最大の大戦中の最大の功績は、ドイツ艦隊の英国海峡を通っての撤退作戦で、完璧な空の援護を行い、この作戦を成功に導いたことにあるだろう。(これによりスウェーデンからの鉄鉱石の輸入が敗戦まで確保された。)このガラントの才能、活躍は、パイロット育成学校の校長が杓子定規に考える人間だったら、決して開花、発揮される事はなかったろう。人を見る目、臨機応変に決定する事がいかに大事であるか、この事実が示している。ちなみにガラントは第二次大戦を生き延びて、敗戦後はアルゼンチンに脱出。戦後、ドイツの再軍備の話になった際、ガラントをドイツ軍総司令官にという話もあり一時帰国するが、ライバルに職を奪われてしまう。そこでアルゼンチン空軍の将官に就任して、アルゼンチン空軍の近代化に大いに寄与した。

運命のいたずらか。Kollerは第二次大戦中、ドイツ空軍に復員、ゲーリングの失墜後、最後のドイツ空軍総司令官に就任、終戦を迎える。

学校のパイロット仲間が前日医療室に侵入、視力検査の表を書き写して、これをガラントにこっそり手渡した。ガラントは朝までこの視力検査表を丸暗記することに時間を費やした。実際は、ほとんど見えていなかった。
          
この街はゲルニカと言う名前だった。

この戦闘中、ドイツ空軍の成果に満足できないゲーリングは空軍基地を訪問、だらしのない部隊に渇を入れる事にした。司令官のガラントを呼びつけると、「忌々しい英国空軍を打破するのに、何が要るのか。」と詰問。ガラントは不利な状況の下、懸命に戦っているドイツ空軍をこきおろす全国元帥に対して怒り心頭に発し、「スピットファイアを1編隊ください!」と回答。ゲーリングは顔を真っ赤にして怒りながらも、一言も発さないでカリンハルに帰っていってしまった。
          
当時は、住民の多いお互いの首都は爆撃しないという暗黙の了解が(まだ)あった。ある日、港湾施設の破壊に飛び立ったドイツ空軍爆撃機は爆撃目標を発見できなかったので帰途に就く。途中、爆弾を持ち帰るのは馬鹿馬鹿しいと考え、これを放棄。たまたまこれがロンドン上空だった。ドイツ空軍のこの首都爆撃に怒ったチャーチルは早速、ベルリンの報復爆撃を命じる。こうして攻撃目標は、軍事施設から次第に民間目標に変わっていった。


アルゼンチン空軍将官の制服で。


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U-234 (25.11.2008)

1940年代は日米両国間の関係が急速に悪化していった時期だが、1940年に戦争大臣(ドイツ語ではKriegssminister)に就任したHenry L. Stimsonは、この関係悪化に大いに貢献した。もっともその原因を作ったのは日本側だったが。実際の所、当時の大方の西洋の政治家と異なり、氏は満州事変の前までは日本の立場にある程度理解を示していた親日家の政治家だった。ところが日本(軍)の中国侵略により、彼の中で日本に対するイメージは次第に悪化していった。氏が最終的に反日家となったのは、1940年以降の日本(軍)の行動が原因だった。フランスがドイツと戦闘を開始すると、フランス領インドシナ(今のベトナム、ラオス、カンボジア)は、当時の日本政府にとって、馬の鼻先に垂らされた人参のようの思われた。現地に駐留するフランス軍の規模は小さいので、占領地を広げる格好の機会だ。それに三国同盟の(都合のいい)義務もある。そこで日本軍は北インドシナに進駐してしまう(火事場泥棒)。これを見たStimson氏は、「日本人には、何を言っても無駄だ。」と悟ったようで、国務長官ハル氏と共同して大統領に日本に対する経済制裁を提唱、これにより日本への鉄鋼(くず鉄)の輸出がストップされてしまう。米国からの鉄鋼の輸入に頼って軍需物資を生産していた日本政府は困ってしまう。

普通ならこの時点で、これ以上の侵略は思いとどまるものだが、当時の日本政府は(今の北朝鮮政府同様)にそんな事は考慮せず、フランス降伏により、権力者不在となった(南)インドシナに進駐、全土を日本軍の支配下に置いてしまう。これを知らされたStimson氏は、「日本の野心を抑えるには生の暴力しかない。」と確信、国務長官と対策の協議に入る。その結果、米国にある日本資産の凍結及び日本への石油輸出禁止令という実力行使に出る。(大領領に事後承諾をもらう。)飲み込みの遅い日本政府もこの処置を見て、米国が「本気」であることをやっと悟る。当時、米国に駐在していたのは野村大使。この大使、実は英語が苦手。とてもではないが、この局面を打開できる能力はない。この為、急遽、日本政府は来栖三郎を特命全権大使として米国に送り、問題の解決にあたらせようとした。
          
その後の交渉で国務長官ハルから日本大使に手交されたのが有名なハルノートで、日本軍のインドシナ及び中国からの撤退、三国同盟からの脱退などを要求していた。この米国からの要求を突きつけられた日本政府は、この前までは三国同盟を「義務」として超え高々に言い張っていたのに、「三国同盟からの脱退は問題なし。問題は中国からの撤兵だ。」と態度をコロリと変えている。ここで歴史学者にとって面白いのは、米国側が要求していた「日本軍が占領した中国領からの完全撤兵」だ。米国側は満州を「占領した中国領」をみなしておらず、その他の中国占領地域からの撤兵を求めていた。しかし、日本政府は、満州を「占領した中国領」と(正直に)考えていた為、「ここからの撤退は不可能。」として交渉は決裂することになる。歴史に「もし」はないが、もう少し交渉の上手い大使を派遣していたら、歴史は違った道を辿っていたかもしれない。(*)

前置きが長くなったが、ここからが本題。ミッドウエ-海戦の壊滅的な敗北以降、敗戦に向かってまっしぐらに突っ走る日本が、起死回生の秘密兵器のひとつとして研究開発をしていたのが、原爆だ。しかし、日本には原爆の製造に必要なウランがない(戦後、岡山の山奥で発見される)。そこで占領地にてウランを採掘、濃縮作業を進めていたが、原爆を製造するに足るウランは入手できそうになかった。ここで(都合よく)同盟国のドイツに助けを求める。運がいいのか、悪いのか、ドイツにはウラン鉱脈があった。勿論、ドイツの科学者も原爆の開発に取り掛かっていた(Uran-Projekt)。ドイツの科学者はウランを臨界に達する「触媒」として重水素を用いていたが、これはドイツ国内では入手不可能だった。しかし、この悩みは1940年のドイツによるノルウエー占領で解決された。ノルウエーには十分な量の重水素があったのである。ドイツの科学者は早速、重水素の採集濃縮を初め、十分な量の重水素が貯まるとドイツに輸送船で送り出すが、その内1隻がレジスタンスの破壊活動により沈められてしまう。無事ドイツに到着した重水素でウランを核分裂させようとしたが、臨界の一歩手前でこの試みは失敗してしまう。結局、原爆を製造するに足るウランは集めたものの、実際に使用されることなく研究室にて貯蔵されていた。

日本政府はこのドイツで「用無し」になったウランをいただいて、日本製の原爆を製造することにした。ドイツ政府から許可が下りると、ウランの日本への輸送を監視させるべく、海軍士官2名とドイツに送り込んだ。1945年4月にノルウエーにあるU-Bootのねぐらを出向したU234には、世界で最初のジェット戦闘機Me262、ロケット迎撃機Me163,V-2ロケットの設計図、部品、何故か65tもの水銀と共に560Kgのウラン235が積まれていた。ところが、U-234が太平洋上に達したところでドイツは連合軍に無条件降伏してしまう。ヒトラーの後任者のデーニッツ提督は、作戦活動中のUボートに対して、連合軍に投降するように呼びかけた。戦争が終わった(負けた)のに、これ以上、任務を遂行して乗員の命を危機にさらす必要なしと判断した艦長は、日本人海軍士官の嘆願を無視、謀反を恐れれてキャビンに監禁させると無線にて投降する旨発電させた。近くには英国と米国の駆逐艦が居たのだが、艦長は米国海軍に投降する方を好み、英国駆逐艦には偽の位置を伝え、目録通り、米国海軍に投降した。これが日本にとって文字通り命取りとなる。

米国ポーツマスに曳航されたU234の積荷下ろしを始めた米国兵士は、ドイツ兵を全く信用していなかったので、Uボートの乗員にこの作業をやらせた。積荷に爆弾がしかけてあると思ったらしい。厳重に梱包されている積荷の一部を見て、米国海軍士官はこの中身を訪ねると、艦長は「きっと驚くと思うよ。」というと、この積荷の正体を明かした。早速、この積荷はワシントンに送られて検査され、米国の科学者から大歓迎される。

米国での原爆の開発はプルトニュウムとウラン235を使用した物の2通りの爆弾が研究開発されていたが、日本と同じように原爆を製造するにはウランの量が足らなかった。そこでプルトニュウムの原爆を2個製造したわけだが、この思わぬ「天の恵み」で、3つ目の原爆を完成させることができた。この原爆はLittle Boyと名づけられ、広島に投下されたのは周知の通り。こうした背景もあって、「広島に投下された原爆はドイツ製だ。」と言うドイツ人は少なくない(大した三国同盟だ)。歴史に「もし」はないが、もし日本政府が原爆の研究開発を最初からしなければ、もしU-234が航海中に撃沈されていれば、もしU-234の艦長が少なくとも潜水艦を投降する前に自沈していてくれたら、広島あるいは長崎で犠牲になった人々の命は救われていたかもしれない。

そうそう、ついでながら日本に原爆投下を提言したのはStimson氏だったと言われている。大統領は戦争はもう勝ったも同然なので、日本に原爆を落とす必要があるのか、明確な意見を持っていなかった。しかし、日本軍の硫黄島や沖縄での死に物狂いの抵抗を見た戦争大臣は、頑迷な日本人を降伏させるにはまだまだ数多くの米国兵士の血が流される事を懸念した。そこへちょうど(大金をかけた)原爆が完成したのだから、「これを使わない手はない。」と考えた。氏の反日感情も間違いなく、この決断に貢献していたことだろう。大統領もこの意見に反対する論拠を持っていなかったので、原爆投下の決定となった。ちなみに日本にはスティムソンを「京都を救った人物」として褒めている人が居る。確かに、原爆投下のリストから京都を外したのは、スティムソンだったが、原爆投下の決定を下したのもこの人物だったことを忘れるべきではないと思う。もっとも原爆を日本に投下するようにスティムソンを説得したのは、我々日本人自身の行動だったのかもしれないが。

*アメリカ人の日本人に対するイメージを(今日まで)決定的に(悪く)したのは、宣戦布告なしの真珠湾攻撃であるが、実は日本政府は攻撃前に米国政府に対して宣戦布告を行うべく、両大使に通告していた。宣戦布告のような大事な書類を手書きで渡すのは先方に失礼と思った両大使は、タイプライターにて宣戦布告文書の清書にかかるが、これまでタイプライターを使ったことがなく、清書に数時間もかかってしまう。おまけに完成した文書は修正液で修正の嵐で、とても見れたものではなかった。そこで両大使は、再び清書の清書に取り掛かる。やっと文書のタイプが終わって、国務長官に会見を求めたときは、真珠湾攻撃はすでに終わっていた。もし、両大使が杓子定規に考えないで、館員のタイピストをこの任務に(こっそり)使用していれば、「日本人は汚い。」というイメージを避ける事ができただろう。


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die Rivalen (30.08.2008)

大西洋を最初に無着陸で(飛行機で)横断したのは誰か、ご存知だろうか。リンドバーク?違います。Arthur Whitten Brownというイギリス人が、同乗のナビゲーターの助けを借りて1919年にカナダからアイルランドに飛んだのが最初の大西洋無着陸横断になります。リンドバークは1927年に初めて単独での無着陸横断に成功したのだが、何故かこちらだけ有名。又、最初の大西洋横断が西(北米)から東(欧州)に飛んだのにも理由がある。北米から欧州に気流が流れているので、西から東に飛ぶほうが飛行時間(当然、燃料とその重量も)を節約できて、ナビゲーションも容易だ。だから、最初の大西洋横断を果たしたイギリス人はわざわざ飛行機をカナダまで運んで、ここからスタートしたのである。では、最初に東(欧州)から西(北米)に無着陸で横断した人、あるいは旅客機で始めて大西洋無着陸横断に成功した人をご存知だろうか。これは他の誰であろう、ドイツ人なのである。正確に言えば、二人の才能に恵まれた技師だった。今回はこのドイツ人飛行設計について紹介してみたい。

先陣を切るのは、Dessau生まれの技師、Hugo Junkersだ。Junkersは19世紀の終わりに、世界で最初のガス湯沸かし器を発明。これでパテントを取り、富を築いた。その際の経験と金を活かして、オランダ人の飛行機設計技師のFokkerと共同で、飛行機(製造)会社、Junkers-Fokkerwerke AGを設立、世界で最初のすべて金属でできた飛行機の製造に取り掛かる。しかし折り悪く第一次世界大戦が勃発、この計画はしばらくお預けになる。戦後、再び設計に取り掛かり、早くも1919年に世界で最初のすべて金属でできた飛行機F13を製作する。これが大ヒット。世界中から注文が入って経済的にも成功する。次は長年の夢だった東(欧州)から西(北米)に大西洋を無着陸で横断できる飛行機の設計にとりかかる。ところが、ドイツ国内では連合国の科した飛行機規制の為、新しい飛行機の設計が事実上不可能。Junkersの夢もこれで潰えたかに見えたが、成功する人間の慣わしとして、ちょっとやそこらの困難には負けない意志の強さ(強情とも言う)があった。会社をドイツからソビエト移して、ここで大西洋横断用の飛行機の設計に着手する。完成したのはW33。基本のコンセプトはF13と同様で、このスケールを大きくしたものだった。1928年にアイルランドを離陸したW33は、悪天候と逆風に悩まされながらも、36,5時間もの飛行時間の後、燃料が切れる寸前にカナダの領域にあった島に不時着。初めての東から西の大西洋横断無着陸横断を果たした。(リンドバーグの飛行時間よりも2時間多くかかった。)
          
Junkersが大西洋横断の飛行機を設計していた頃、ドイツ国内では政府が航空会社を統合する事を決定した。これによりJunkers-Fokkerwerke AGは1926にもうひとつの航空会社Deutsche Aero Lloydと併合(統合?)され、ルフトハンザが誕生した。その結果、Junkersの製造した旅客機は、ルフトハンザで使用される事になり、これはJunkersにとっても都合が良かった。(新しく設計、製造した飛行機が売れるかどうか、心配する必要がなくなるので。)Junkersがルフトハンザの為に最初に貨物及び旅客郵送の目的で設計、出来上がったのが名機として名高いJu52である。この飛行機は飛行速度が遅いので、戦争目的には向かないと連合国側が判断。お陰で、堂々と飛行機を販売する事ができた。速度が遅いというのは、逆に言えば滑走路が短くて済む。つまり、整備された滑走路などは必要なく、ある程度平坦な草原なら離着陸が可能で、又、整備手間がかからない(Wartungsarm)設計なので航空会社には大助かり。結果、飛行機の大ヒット商品となり、Junkersの名前は、ルフトハンザの成功と共に、ドイツで知らない人はいないほどの有名人(お金持ち)になった。

人生で最大の成功を収めたと思われたこの時期は、実際にJunkersとって人生の頂点で以後は急激な下り坂が待っていた。1933年に政権をとったナチスはこのJunkersの会社(飛行機)は、将来の戦略に不可欠と判断。しかしJunkersはナチスが大っ嫌い。戦前の日本のように国民の99%が皆、「右に倣え!」をしているときに、一人だけ別の事をすると売国奴となる。Junkersの場合も例外ではなかった。パテントは国有化され、会社は(ナチスに進んで協力した)Boschに(二束三文で)強制販売され、Junkers自身は、外国への旅行を禁止、自宅に軟禁されてしまう。この為、第二次大戦の初期に活躍した急降下爆撃機Ju87(通称、Stuka)、Ju88は、ユンカースの名前を冠しているが、ユンカースの設計によるものではない。

実はこのJunkersにもライバルが居た。名前はClaude Dornier。当時、旅客機(船)の役割を担っていた飛行船Zeppelin社で働く若い技師だった。ドルニエは、旅客機の将来はスピードの遅い飛行船ではなく、すべて金属製でできた飛行機にあると信じていた。又、世界の主要都市は海(川)の辺にある事に注目。旅客機の将来は滑走路の必要な飛行機にではなく、水上飛行機にあると確信して、これを会社の持ち主、Graf von Zeppelinに相談する。Zeppelinはこの若い技師のアイデアに感心して、社内に水上飛行機部門を設置してドルニエに研究開発を一任する。その後、この部門は、Zeppelinの財的支援で独立、伝説的なDornier-Werkeの誕生に至る。もっともその後の研究開発はまさに茨の道だった。

最初の水上飛行機は大失敗で、業界の笑い者になる。しかしZeppelinのドルニエに対する信頼は厚く、財政援助を惜しまなかった。その頃、ドルニエはすべて金属で出来た飛行機の設計をしているJunkersという名前の設計家についてその噂を聞いようだ。独自の飛行機開発に不安を感じたドルニエは、Junkersの工場まで出かけて、共同での飛行機開発をもちかける。しかしJunkersはドルニエを全く相手にしなかった。(ドルニエが持参した設計図を見る事さえしなっかったと言われている。)。これには流石のドルニエも怒った。ボーデン湖辺の工場に帰ってくると日夜、水上飛行機の設計、制作に没頭し、1919年2機目の試作機Dornier Do Gs I、通称、Dornier Wal(ドルニエの鯨)を完成させる。ドルニエが緊張して見守る中、GS Iは本当に(誰も金属でできた飛行機が離陸できるとは思っていなかった)離陸して、無事試験飛行を終える。数々のテスト飛行後、ドルニエはこの水上飛行機を販売すべく、海外にでかけてテスト飛行を披露するが、これが原因で連合国の飛行機規制にかかってしまう。水上飛行機はドイツ海軍の秘密兵器と判断されたのだ。唯一の試作機が没収されそうになると、ドルニエは「敵にくれてやるくらいなら海に沈めてしまえ!」と指示。GS Iは北海に沈められてしまう。

長年の苦労の末、やっとの事で完成させた飛行機を自分の手で沈める事になり、ドルニエの夢もこれで潰えたかに見えたが、成功する人間の慣わしとして、ちょっとやそこらの困難には負けない意志の強さ(強情とも言う)があった。会社を(ボーデン湖をボートで渡って)スイスに移動させると、ここでで水上飛行機の開発にとりかかる。実際家のドルニエは、「連合国が水上飛行機を海軍の秘密兵器と考えるなら、いっその事、水上飛行機を軍事用の水上飛行機として開発すれば売れるかもしれない。」と考えDo 22を制作。実際、試作品数期はすべて諸外国で買い手が見つかってしまった。

時を前後して、ドルニエはドイツ政府から極秘の依頼を受ける。世界にドイツの技術力の高さを誇示するために、世界で一番の大きな旅客機、しかも大西洋を無着陸で横断できる最初の水上旅客機の制作を(連合国にばれないように極秘で)依頼してきたのだ。ドルニエは(これでJunkersをまんまと出し抜いたと満足して)これを承諾するが、飛行機の設計制作にほぼ2年もかかる大事業となった。1929年に完成した水上飛行機Do Xは、全長40m、高さ10m、重量30t、乗客数159の巨大なアルミニュウムの怪物(塊)だった。比較の例として、第二次大戦後(1949年)、世界で最初に導入された(ロールスロイス製)ジェットエンジンを備えた旅客機Cometの数字を挙げると全長30m、高さ9m、重量28t、乗客数36だったから、その20年前製作されたこの飛行機のスケールの大きさがわかると思う。(ちなみにライバルのユンカースが同時代に製作したJu52はたったの15人乗り。)当然、こんな怪物が実際に離陸可能とは誰も思ってもいなかった。大勢の野次馬とドルニエが緊張して見守る中、ゆっくり滑走を始めたDo Xが飛行速度に達すると、何事でもないかのようにあっさりと離陸してしまったのである。この光景を見たドルニエは、"Das ist der glueckliste Moment meines Lebens."「これほど嬉しかった事ない。」と明らかに感動して感想を漏らした。

誰かが成功すると、これを妬んで悪口を言う人が居るものである。ドルニエの場合でも例外ではなかった。「あの飛行機は燃料も空っぽで、乗客も乗せないで乾燥重量を軽くしたので離陸したに過ぎない。燃料を満載するか、乗客を乗せれば、離陸すらできないだろう。」と(自分は何もしないで)陰口を叩く人が多かった。ドルニエのこれに対する回答は単純そのもので、実に効果的だった。社員159人を乗客として乗せたDo Xには、初飛行時と同様に軽々と離陸、あっけにとられる観客の目の前で1時間近いボーデン湖の周遊飛行を披露したのである。その後、改良を施したDo Xは、1931年アメリカまでの無着陸飛行に出発、無事ニューヨークの到着すると、飛行クルーは熱狂的な歓迎を受けた。これによりドルニエは「成功した人」となり、ライバルのJunkersも出し抜いたし、後はばら色の人生が待っているだけ(die Lorbeeren ernten)のように見えた。

ところが以後は、試練と挫折が待っていた。ナチスが政権をとると旅客機には一切に興味を見せないで、ドルニエに爆撃機の製作を要求する。ナチスへの協力を断ったユンカースの運命を見た後だけに、ドルニエはこれを断る事ができなかった。その後、ドイツの敗戦まで爆撃機の設計、製作を続ける事になる。戦後のドイツでは、また連合側により飛行機設計の禁止令が引かれたのでスペインにて飛行の設計を続ける。ドイツで飛行機設計の禁止令が解かれると、ドイツに戻って来て、Dornier-Werkeを再建する。その後、Dornier-Werkeは息子達に引き継がれるが、息子達は飛行機設計の才能も引き継いだようで、この時期Dornier-Werkeから実にたくさんの試作機が生まれる。例えばドイツで(戦後)最初のジェット戦闘機Alpha Jet。ドイツ及びフランス空軍で採用された。

1969年にドルニエが死去した頃から、Dornier-Werkenの経済状況は悪化する。21世紀に入ってからは米国の飛行機製造会社Fairchildの傘下で、細々と小型旅客機の生産を続けていたが、2007年、会社が倒産した。これにより伝説的なDornie-Werkeはなくなったが、今でも数機だがドルニエは製作した水上飛行機が現存している。ドルニエの孫が、この有名な祖父の遺産を引き継いで、飛行可能な状態に整備している。ドイツに留学されてボーデン湖で離発着している水上飛行機を見る機会があったら、この有名な(今では忘れられている)飛行機設計家を思い出して欲しい。


大西洋の東から西への初の無着陸横断を果たした際の記念写真。Junkersは写真中央。




Junkersのライバル、Prof. Dr.-Ing. Claude Dornier


         


Fremde Heere Ost (29.06.2008)

諜報機関(ドイツ語ではNachrichtendienst。)は、敵の情報を入手するのが目的であるから、争いのある所には、必ず諜報機関があった。日本では(今では世界で有名になった)忍者が居たし、中国には間者が居た。欧州にも諜報機関の長い歴史があるが、欧州各国で諜報機関が政府の指令で発足、発達したのは、19世紀の後半のようだ。英国の有名な探偵小説、シャーロック ホームズにもロンドンに跳梁する各国のスパイの活躍が書かれている。

話をドイツに戻そう。ドイツでは第一次世界大戦前からドイツ陸軍内にAbteilung Fremde Heereと呼ばれた諜報機関があった。この諜報機関は、その実際の行動よりも、その名前の方が先行して、ドイツの仮想敵国、英国、フランス、ベルギー、オランダ、ロシア(要するにドイツの周辺国すべて)では、潜入していると思われるドイツのスパイに非常に敏感になっていた。その結果、無罪の人間がドイツの諜報機関員と間違われ、刑務所行きか、島流しの刑に遭った。その一番顕著な例は、フランス陸軍士官Dreyfusの地獄島への島流しだろう。

第二次大戦になると、戦線の拡大でAbteilung Fremde Heereは西部戦線担当のFremde Heere Westと、東部戦線担当のFremde Heere Ostに分割された。(ドイツにはこの他にもAbwehrと呼ばれる防諜機関もあったが、この長官、Wilhelm Canarisはヒトラー反対派で、故意に間違った情報をヒトラーに伝え、ドイツ敗北に大いに貢献したので、諜報機関としての功績は低かった。)このFremde Heere Ostの長官に任命されたのがReinhard Gehlen大佐(終戦時、少将)。Gehlenは、諜報分野で働いた経験もなければ、ロシアの知識もゼロ、外国語も全く話せないというただの参謀将校であったから、ドイツ陸軍はこの機関の将来性にあまり期待していなかったようだ。しかし奇遇な事にGehlenは、生まれながらの諜報機関員の才能を持っていたようで、誰も期待していなかったのに、めきめきと実績を挙げてドイツ陸軍諜報の第一人者となる。Abwehrはロシア軍の攻勢の場所、時期、予備軍などで常に間違った情報を提供していたのに、Fremde Heere Ostはかなり正確なロシア軍の情報を提供した。哀しいことに、ヒトラーはロシア軍を過小評価していたので、自分の論理に合うAbwehrの偽情報を信用してしまい、大失敗をする。終戦直前にAbwehrの長官のカナーリスが裏切り者だと知った際のヒトラーの怒りと失望は計り知れず、連合軍に収容所を接収される前に、直々にカナーリスの処刑を命令したほどだった。

賢いゲーレンはこのドイツ上層部の石頭振りを見て、遅かれ、早かれ、ドイツの敗北は避けられないと確信。ロンメル元帥など多くの将軍は、ヒトラーの指導振りに絶望して反対運動に身を投じ、暗殺未遂事件でその責任を負われ、処刑されるか自殺を強いられたが、ゲーレンは情報将校だけに、そのような危険は方法を取らずに、もっと安全で確実な方法を取った。ゲーレンはドイツの敗北後、西側(米国)と東側(ソ連)が衝突するのは時間の問題と正しく分析。そうなると、ゲーレンがこれまで集めたソ連に関する機密情報、ソ連邦内のゲーレンの機関員などは、米国にとって大変な価値を持つことになる。そこで終戦が近くなるとこれまでソ連に関して集めた情報をマイクロフィルムに収めさせると、機関員に命じて、オーストリアの森の中に埋蔵させた。

ドイツ敗北後、ソ連が占領地に傀儡政権を立てて、東ブロックを確立すると、米国も同様の対応を余儀なくされた。しかし米軍の困った事に、米軍はロシアの情報を、ロシアの地図さえも、一切持っていなかったのである。そこで米軍はドイツ軍が保管していたロシアの地図の接収を命じたほどだった。また、ソ連はベルリンを通してほとんど自由に諜報機関員を西側に潜入されることができたのに、ソ連が国境を封鎖したので、西側の諜報員を送り込むことができない。つまり諜報にかけては圧倒的に不利な体制に陥った。ここでゲーレンが登場する。ゲーレンは終戦時、米軍に投降していたが、米軍諜報部(OSS)に協力を申し出てきたのである。ゲーレンの情報が喉から手が出るほど欲しい米軍諜報部はこれを大歓迎、占領軍内部に新しい機関、Organisation Gehlenを立ち上げると、ゲーレンはこれまでの機関員、コンタクト先を利用して諜報活動を再開した。

当然、ソ連軍の怒りは通常でない。ソ連を侵略したナチスの戦争犯罪人を米国が裁判にかけないで、これを援助してそのまま利用しているのだから。当時、スターリンは怒り心頭に発し、ソ連工作員にゲーレンだけでなくその家族の抹殺を指令したと言われている。もっともこの命令が実行される前に、この指令は優秀なゲーレンの機関員の知る所となり、暗殺は成功しなかった。その後、ゲーレンの自宅は2mもの壁と鉄条網に囲まれて、常時、機関銃を抱えた警察(あるいは機関員?)が警備をしていた。

その後、西ドイツが建国されると、ゲーレン機関は正式な西ドイツの諜報機関へと昇進、名前をBundesnachrichtendienst/BNDと変えたが、中身(人員)は、Fremde Heere Ostのまま。戦後、初の西ドイツ首相となったアデナウアーは、ナチス嫌いではあったが、諜報機関の重要性をよく認識していた。この為、アデナウアーの執務室にはゲーレンからの直通電話が別個設置されており、ゲーレンは他の誰にも邪魔さる事なく、首相に直接電話をかけて作戦に必要な認可を受けることができた。アデナウアーの功績として歴史に残っているドイツ軍捕虜の解放、ドイツ帰還も、実はこのゲーレン機関の諜報の役割が大きい。(日本政府も是非、見習うべきだ。)

その後、BND(ゲーレン)の活躍は数知れず。一番有名なケースではWilly Brand首相の秘書がKGBのスパイであることを暴露した功績が挙げられるだろう。もっとも活躍ばかりではなく、別の機会に(どこの国の諜報機関もよくしているように)国会議員の自宅に盗聴器を仕組んで会話を盗み聞きしていたことが明らかになり、ゲーレンはBND長官の地位を退く羽目となった。

諜報機関を持つ事は、なにもいい事ばかりではない。弊害もある。しかし、諜報機関を持っていないと不利になることの方が圧倒的に多い。例えば日本人が海外で誘拐された場合、諜報機関を持っていないので、交渉は米国の諜報機関にお願いするか、(もっとひどい事には)犯人の言うままになっている。お陰で日本では北朝鮮のスパイに限らず、各国の諜報員が日本ですき放題をしている。日本にゲーレン機関のような諜報機関があれば、日本海側に上陸してきた北朝鮮の工作員を一網打尽にして、誘拐された日本人と交換するか、あるいは捕まえた工作員を二重スパイにして、北朝鮮の日本にある諜報網を一網打尽にするなど、かなり効果的な手段が取れた筈だ。何故、日本には諜報機関がないのだろう?80年代に中曽根首相が諜報機関の設置を企てたことがあったが、世論の反対で成功しなかった。しかし、日本は大戦前に陸軍中野学校という優れた諜報機関があり、そのアジア戦線における功績は実に目を見張るものがあった。日本(人)の利益を守る為に、是非とも日本にも(内閣調査室で満足していないで)、諜報機関の設置を願いたい。これにより、少なくとも自衛隊に費やす税金よりも、もっと有益な結果が残せる筈だ。


若き頃のReinhard Gehlen




 



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