Pfadfinder24
ドイツ留学なら、ドイツのエキスパートPFADFINDER24にお任せ!
   お申し込み    お問い合わせ    会社案内    利用規約    サイトマップ
Themen
ドイツ史の達人 2

> トップ> バックナンバー >005 >004> 003> 002 > 001

 

  

   
Geheimwaffen (10.01.2008)

今回はマニアックなテーマで恐縮だが、ドイツで第二次大戦前後に開発された秘密兵器(Geheimwaffen)、特に空軍の分野について取り上げてみたい。ドイツ人はとても独創的で、多数の信じられないような飛行機を設計、製造した。その多くは失敗作で、実験段階で放棄されるか、実際に製造されたものの、全く役に立たなかったものが多い。例えばHeinkel177機。二基のモーターの動力がひとつの軸に伝えられて、プロペラを回転させるとういう設計上の奇物で、エンジンの故障を頻繁に起こして炎上、墜落した。敵に打ち落とされるよりもエンジンの故障で墜落するケースの方が多いので、パイロットの間ではReichsheuerzeug(帝国ライター)というありがたくない愛称で呼ばれていた。ここではこうした奇物で、多くの人にはその存在させ知られていない飛行機について紹介してみたい。

輝かしいトップを飾るのはHorten兄弟が設計し、試験飛行まで終えた戦闘機Ho IX。この飛行機は、外見からわかるように超モダンなNur Fluegler(無胴翼機)で、Junkers製の世界で最初に大量生産されたジェットエンジンJumo 004を翼の上部に配置、最高速度はマッハに達した。急激な気圧の変化でパイロットが気絶しないように、宇宙飛行服が着用された。又、この飛行機はレーダー派を反射しないように塗装が工夫されており、史上初のステルス戦闘機でもあった。全部で3機の試作機が製造され、1945年2月に無事、試験飛行を終えてその性能の高さを証明したが、そこで終戦になる。1機は英国軍が、2機は米軍が接収。50年後に米国で採用されたB2爆撃機を見ると、どこからコピーしたのかよくわかる。尚、幸運なことに米国に押収された1機は、廃棄を逃れてNational Air and Space Museumで修復される日を待っている。

次に紹介するのはBa349迎撃機。通称、Natter(毒蛇)だ。この「飛行機」は連合軍の爆撃機に対して投入されるべく研究開発された。このロケットエンジンを備えた迎撃機は、音速を超え、14kmもの高高度まで垂直上昇することが可能だった。頭(鼻)の部分に24個の空対空ロケットを装備しており、連合軍の爆撃機に接近したら、一気にロケットを発射、運がよければ1発くらいは命中するだろうという代物。鉄が不足していた為に、なんと木製。しぶい。無人の発射テストはうまく行ったが、1945年2月の有人テストではパイロットが自動制御装置をオフにしてスタートした為、失敗。パイロットは死亡して、この計画も棚上げになった。

更には戦争の帰趨を決定する秘密兵器としてヒトラーの期待を担っていた飛行機のひとつにArado製のAr 234、通称 Blitzがある。これも世界初のジェットエンジン推進の爆撃機だ。1.7トンの爆弾を搭載可能。4機のジェットエンジンを搭載している為、最大限の積載量でも速度は740km/h可能で、連合軍の戦闘機より早い爆撃機だった。(英空軍のSpitfireは最高速度600km/h程度。)つまりこの爆撃機は護衛の戦闘機を必要とせず、単独で任務を遂行することが可能、連合軍はこの爆撃機を打ち落とす手段を持っていなかった。この飛行機は1944年7月に非武装でイギリスに偵察飛行に飛ぶ。すぐさま英国空軍が迎撃に飛び立つが、この爆撃機に追いつくことさえできなかった。まさに「向かう所敵なし」の秘密兵器だった。A4*の為に無駄に使われたエネルギーを他に使うべきだった。このもしこの爆撃機が半年早く完成していたら、連合軍はノルマンデイー上陸どころではなかったろう。皮肉なことにこれを阻止したのがヒトラー自身だった。ヒトラーは空軍の事は何も理解せず、ドイツが爆撃されて、兵器工場や石油の精製施設が破壊されても、報復の為に常に爆撃機の大量生産を要求。お陰でドイツ空軍は、時代遅れで爆弾の搭載量の少ないDornier製、 Do 17、通称Bleistift(鉛筆)か、役に立たないHeinkel177のような爆撃機の生産に集中して、戦闘機の生産をないがしろにした。もし戦闘機を大量に生産していれば、ドイツの産業の中心部は守られて、その間に秘密兵器が間に合って生産されて戦争の帰趨を変えていたかもしれない。

ドイツ人技術者の独創性を象徴するのがジェット戦闘機として考案されたFocke Wulf Triebfluegelだ。3機のジェットエンジンを回転させながら推進力に利用することで、垂直離陸が可能になり、滑走路が必要なくなる。この戦闘機は研究だけで終わったようだが、そのアイデアは次の秘密兵器で生かされている。

ドイツでは戦前から、従来の飛行機の翼を改善する研究が頻繁に行われた。その結果のひとつが、最初に紹介した翼だけの飛行機Ho IXであり、ここで紹介するRundflugzeug(円形飛行機)だ。飛行機の推進力がプロペラだけに限られていたいた30年代は、プロペラを付けて円形飛行機の研究を進めていたが、研究の優先順位は高くなかった。第二次大戦が勃発、42年以降ドイツが次第にが制空権を失い始めると、滑走路を必要としない垂直離陸が可能な推進力の研究が熱心に進められた。43年になるとこの研究は連合軍の飛行機の届かない占領地のポーランド、及びチェコに移されて"Laternentraeger"のプロジェクト名の下、最優先課題となった。44年にはさらにアップグレードされて、このプロジェクトは"Kriegsentscheidend"(戦争の行方を決定する)となり、ペーネミュンデのロケットよりもさらに高い、第三帝国内で最高度の優先度が与えられた。ヒトラーはこの武器を"Wunderwaffe"(奇跡の武器)と呼び、「これを使用すれば、戦争の行方はあっと言う間に決定する。」とラジオ演説した。この奇跡の武器は1945年1〜2月まで研究開発が急ピッチで進められたが、実戦に投入できるレベルに達すことができず、3月以降、研究施設の退去が行われた。膨大な数の試作品、研究資料は唯一存在していた輸送機Ju-390に積まれると、4月にプラハの空港から飛び立って、今日至るまでどこに向かったのかわかっていない。


* A4 陸軍が開発していたロケット。正式名称は Aggregat4。日本語で言えば、「4つめの試作機。」発射の瞬間の壮大な光景に圧倒されて、ヒトラーは最優先課題を与え、開発に膨大な資金と労力がつぎ込まれた。よく1トンの弾頭搭載と言われているがこれは誇張で、実際にはわずか820kgの火薬しか搭載できず、武器としての効果は薄かった。宣伝大臣は国民の戦争意欲向上の為このロケットにVergeltungswaffe 2、略称V2の名前を与える。1944年9月から実戦に投入されるも、わずか6千発弱が発射されただけ。このロケットの攻撃で失われた命よりも、生産する際に失われた人名の方が多かった。戦後、軍需大臣のSpeerが尋問の際に、「このロケットは結果として、イギリス経済とドイツの経済のどちらにより甚大な被害を与えたと思うか。」と聞かれ、しばらく考えた後、「ドイツ経済、、。」と答えたほど金と貴重な資源が無駄に使用された。


戦後、米軍に押収されて、


倉庫で錆び続けるHo IX。

 


Bismarck (03.01.2008)

今回はドイツ人の大好きなビスマルクを取り上げてみよう。日本は言うに及ばず、ドイツでもこの人物について間違ったイメージが定着してしまっているので、実際のビスマルク像をここで紹介したい。

Otto von Bismarckは1815年にエルベ河の東側、Schoenhausenに生まれた。エルベ河の東と言えば、元来、スラブ民族が住んでいた土地で、10世紀頃からゲルマン民族が入植、つまり先住民族と戦って、この地をゲルマン化した。この為、この地域に住む「ドイツ人」は名前に..itzや..owを持つ人が多いが、これは典型的なスラブ人の名前であり、顔もスラブ的。ビスマルクの先祖は、この土地に農民として移り住んで、商人として富を築き、領主になった。日本の歴史で習うユンカーというやつだ。そのユンカーとして育ったビスマルクの性格を一言で言うなら、怠け者。もうちょっと形容詞を加えるなら、頭は悪くないが、傲慢、女好き、大酒のみ、賭博狂いということになる。とてもドイツ帝国建国者の描写とは思えない。

大学時代は、講義に出ているよりは、酒場で大酒をかっくらっているか、女性を追っかけまわすか、賭博上でお金をすっていることの方が多かった。それでも大学で無事、法律の終了試験に合格するほどだったから、頭脳は優れていたようだ。大学卒業後、アーヘンで見習いとして採用されるも、2週間の休暇期間中にある女性に見惚れてしまい、勝手に自分の婚約者だと決めつけ、2ヶ月にも渡って女性を欧州中追い掛け回した。チューリヒでやっと我に返ると、仕事先に連絡する必要がある事を思い出す。アーヘン市役所からの手紙は、「もう戻って来なくてもいいよ。」というものだったので、喜び勇んで両親の遺産を引き継ぐべく、故郷に帰国する。「役人なんぞにならなくても、故郷で農家をやればいい。」と思ったのだ。もっとも農家としての仕事にもすぐ飽きてしまい、領土の管理に管理人を雇い、本人は欧州旅行に出てしまう。たまに帰って来ると、朝食には伊勢海老とシャンパンを取り、奢った生活に耽溺する。まさに傲慢なユンカーの見本のような存在だった。

そんなビスマルクが政治に関わってくるのは、まさに偶然の産物以外の何物でもなかった。土地の議員が病気になってしまったので、大地主であるビスマルクにそのツケが回ってきて、代わりにベルリンの議会に出席することになる。折りしも1948年にフランスで2月革命が起きると、これがドイツに飛び火(3月革命)。民衆は民主主義を求めて、あちこちで革命が起こる。プロイセンも例外ではなく、民兵が銃を持ってバリケードを築き、デモ隊が皇帝の居城を取り囲む。しかし、皇帝は軍隊に鎮圧の命令を出し渋る。この事態は、ビスマルクにとってものすごいショックだった。ビスマルクの生活の基盤は、貴族としての特権、その土地にある。この特権、つまり封建体制が崩れれば、ビスマルクの土地は農民に分散されて、生きていく術を失ってしまう。(これまで怠けて何もしなかったから。)しかるに、肝心の皇帝はその一大事にあって軍隊を投入しないで、事態を静観しているだけ。このまま皇帝にすべてを任せていたら、封建体制は崩れさってしまう。誰かが、これを断固として阻止しなければならない。これがビスマルクに政治家として、本気で活躍する原動力を与える。

革命熱が冷めると、これまでの封建体制の維持に大いに興味のあるプロイセン、オーストリア(当時はまだ大帝国)及びドイツの残りの諸侯が参加していたドイツ同盟(der deutsche Bund)の最初の議会がフランクフルトで開かれることになる。その議会でプロイセンを代表することになったのが、他の誰でもない、必要とあれば武力を用いても封建体制を維持する用意のあるビスマルクであった。ビスマルクは外交官としての経験が全く欠如していたにもかかわらず、皇帝にとって、これほどプロイセンの利益を主張してくれる適任者はいないように見えた。もっとも「ビスマルクに武器を握らせたら、何をしでかすか、わかったものではない。」と危険な右翼の活動分子と見られていたが。

ビスマルクの目的は、この議会でオーストリアの名声を落として、プロイセンこそがドイツ同盟の盟主にふさわしいとアピールすることだった。そしてビスマルクは、アマチュア外交官らしい方法で、見事にこれに成功する。当時、議会の中では禁煙になっていた。ところが、大帝国オーストリアを代表する議員だけは、喫煙をする事ができた。これは暗黙の了解で、どこに書かれていたものでない。議会が始まってオーストリアの議員がタバコに火をつけるを待ってから、ビスマルクはこれ見よがしに葉巻を取り出すと、みんなに見えるようにこれに火をつけたのである。この事件は、フランクフルトの葉巻事件としれ歴史に残ったほど。その後もビスマルクの挑発的な態度は激しさをます一方で、ある時は怒り心頭に発した議員が、ビスマルクに決闘を申し込む事態にまでに発展。決闘の場面では、双方わざと目標を外して撃ったようだが、以後、ビスマルクの「過激派」としての名声は不動のものとなる。
          
プロイセンの王が病気で退位、新しい王が君臨すると、プロイセンの対外政策も一気に変わる。今度の王はオーストリアとの関係改善を外交の目的とした為、ビスマルクは一番の邪魔者。そこでまずは、ロシアついでフランスにプロイセンの外務大臣として左遷されることに。ちょうどその頃、プロイセン国内にてゆゆしき事態が生じる。膨大な軍事費の出費に我慢のならない議会は、この無駄使いを制限すべく軍隊改革案(徴兵制を3年から2年に)を提案。一方、プロイセンを欧州の超大国にして、自分の名前をフリードリヒ大王のように名君として歴史に残したい皇帝は、これに猛反対。すると議会は予算案自体をブロック。怒った皇帝は退位をほのめかし、プロイセンは国内政治の危機を迎える。これを見た戦争大臣Roomは、「ビスマルクを首相にして、問題の解決にあたらせてみてはどうか。」と提案。ビスマルクを過激派としか見ていなかった皇帝も、事ここに至っては他に適任者が見つからなかった。ビスマルクは直ちにパリから呼び戻される。皇帝はビスマルクに、徴兵制の変更なくして、軍事予算を国会で通過させる事が果たして可能かどうか問うと、ビスマルクはこれを軽く請け負ってしまう。こうしてビスマルクの首相及び外務大臣就任が決まった。

その後のビスマルクの「活躍」は、「過激派」の名前に恥じないもの。議会との予算交渉でうっかり口を滑らして、「口先や過半数制度で大きな問題が解決されるものではない。それが1948年〜49年の過ちだった。本当の問題は、鉄と血によって解決されるのだ。」と口を滑らしてしまう。これでは誰が聞いても、戦争を煽動している危険人物の発言で、首相たるべき人物の発言ではない。この結果、ビスマルクは議会はおろか皇帝の信用を失い、危うく失脚する所だった。日本でビスマルクの名演説として紹介されているこのフレーズは、実際にはビスマルクの失言であった。その後も、政治経験の浅いビスマルクは、やる事、なす事、すべて失策で、人気はどん底、首相就任早々ながら辞任(更迭)は時間の問題と思われた。

ところが、ここで都合よくデンマークの王が死去する。機を見るに敏なビスマルクは、このごたごたを利用して、デンマークに認められていたSchleswig-Holstein州の支配権に文句をつけて戦争を挑発。まずはあれほど憎んでいたオーストリアと同盟を組むと、軍隊を進め、デンマークを負かして、Schleswigをプロイセンに併合する。プロイセンの領土が拡大したので、皇帝も大喜び。お次はオーストリアのHolstein州支配権にいちゃもんを付け、プロイセンに対して宣戦布告されることに成功。皇帝は、兄弟国家との戦争に大反対するも、持ち前の押しの強さでビスマルクはこれを押し切ってしまう。プロイセン参謀本部長のモルトケ将軍の優れた立案で、プロイセン軍はオーストリア軍をKoenigskraetzにて一蹴すると、さっきまでは泣きながら戦争に反対していた皇帝は打って変わって大喜び。このまま行け行けどんどんで軍を南下させ、ウイーンに入城、トルコ軍さえ果たしえなかったウイーン占領を夢見る始末。モルトケもこれに賛成。軍事的観点から見れば、退却する敵を追撃するのが、敵を完全に打破する最善の方法だ。しかし、これに反対を唱えたのがよりによってあの「過激派」で、この戦争を挑発した張本人のビスマルクだった。ビスマルクにしてみれば、ここでオーストリアを完全に叩きのめすと、同盟国としての価値がなくなってしまうことを恐れた。又、戦争相手とは言え、オーストリアは同じ言葉を話す同じドイツ人の国家だ。敵に回すよりも、ここで恩を売って見方にしておけば、将来、ロシアあるいはフランスを戦う際に背面を守ってくれる。こうしてプラハで講和条約が結ばれ、プロイセンはオーストリアに対して領土要求をしなかった。このビスマルクの賢い先見の明のお陰で、プロイセンがフランスと戦っている間、オーストリア帝国はプロイセンの背後をロシアに対して守ってくれ、勝利を収めることができたのである。もっともこの時の決断で、モルトケ将軍との仲はかなり悪くなったが。

オーストリアの欧州での覇権を破ると、ビスマルクの野望、ドイツ帝国の建設を妨げるのは、フランスのみ。ちょうど1868年にスペインの王位継承問題が持ち上がると、ビスマルクは皇帝をそそのかしてHohenzollern家の王位継続権を主張させる。これを断った電報がBad Emsで過ごしていた皇帝の下に届く。ビスマルクはこの電報の内容を自ら書き換え、戦争大臣Roomと参謀本部長モルトケ将軍と協議の上、新聞に発表。これがきっかけとなり、フランスがプロイセンに宣戦布告をする。この戦争は、これまでプロイセンが戦った戦争と決定的に違う点がひとつあった。これをご存知の方は、ドイツ史の達人だ。この戦争は、すべてのドイツ諸侯がプロイセンの側について戦った最初の戦争であった。(以前、ナポレオンがドイツに侵入した際は、バイエルン州はナポレオン側についた。)この辺りにもビスマルクの外交手腕が感じられる。当時、フランスに同情していたバイエルン州の王、Ludwig2世は、金を貢いでおとなしくさせられた。お陰で王は大好きな城作りに「専念」できた。この戦争でドイツ連合軍は、フランス軍を完全に打破して、ビスマルクの目論見通り、ドイツ第二帝国が樹立されることになるのである。

日本の明治政府は、プロイセンの憲法をコピーした事からわかるように、プロイセンの真似をする事にとりわけ熱心だった。その結果が富国強兵政策で、ビスマルク(プロイセン)の真似をして軍事力の増強ばかりに力を注いだ。これが大きな誤りだった。ドイツ帝国の樹立を可能にしたのは日本の教科書で習う鉄と血の政治ではなく、多分にモルトケの天才のお陰であり、さらにはビスマルクの(唯一の長所である)国際政治におけるバランス感覚だった。もし、ビスマルクが先の戦争でオーストリアを叩きのめしていたり、領土を占領していれば、復讐に燃えるオーストリアがプロイセンがフランスを戦っている際に、背面を攻撃してきたか、最悪の場合、ロシア軍と一緒に軍を進めてきて、7年戦争のような四面楚歌の状況になっていただろう。そうなればいくらモルトケの天才をしても、圧倒的な敵の前にはなす術なかった。これを未然に防いだのが、ビスマルクの賢い決断だった。これを理解しない日本政府は、終始、我侭な子供のように振舞って孤立、周囲を敵で固めてしまった。その結果が第二次大戦の破綻だ。うわべだけ(自分に都合のいい部分だけ)コピー(真似を)するのではなく、ビスマルクの外交術を学んでいたら、こうはならなかったろう。

又、ビスマルクは上述の通り、国内政治では間違いばかり。国内で人気を失くす度に、人気回復の為に取られた手段がこの戦争であった。しかし国際政治となると、ビスマルクは不思議なことにバランス感覚をもっていた。ドイツ帝国樹立後、ビスマルクは社会民主主義政党との闘争でまた人気を失くし、新しい皇帝にも嫌われて、首相の地位を首になる。面白いことにビスマルクの人気があがったのも、これがきっかけ。ドイツ人(プロイセン人だけでなく。)は、ドイツ帝国の樹立をしたビスマルクが首相の地位を追われたのに同情。ビスマルク人気は上昇を続け、首相の地位を去ってから始めて、毎年ビスマルクの誕生日にはパレードが開かれるまでになった。そしてその死後も、ビスマルク人気は衰えていない。ドイツの町でビスマルク通りあるいはビスマルク広場がない町はないのがそのいい証拠だ。


(過激派)ビスマルク。



嫌っていたビスマルクを首相に起用して、初代ドイツ皇帝となったWlihelm1世。
 


Mein Jugendfreund (13.12.2007)

19世紀も終わりに近づいた頃、オーストリアはリンツで室内装飾業を営んでいたKubizek一家に、長男としてAugst Kubizekが生まれた。一家にとっては大変なイベントだったろうが、普段なら、21世紀にはそんな名前の人間が存在していたことさえ知る人は皆無だったろう。しかし、「事実は小説よりも奇なり。」という通り、Augst Kubizekは小説家でも書けない稀な経験をして、歴史に名を残すこととなった。

Augst Kubizekの父親は、息子が大きくなれば、いずれは家業を引き継いでくれるものと大いに期待していた。ところが親の心、子知らずである、息子は家業よりも音楽に興味を示して、暇さえあればリンツ市内のオペラハウスにオペラを鑑賞しに行ってしまった。地方のオペラ ハウスとは言え、まだ見習いの身分であり稼ぎの少ないKubizekは、せいぜい立見席の入場券を買うのが精一杯。幾ら好きなオペラでも、2〜3時間も立ち続けているとかなり辛い。そこで疲れたら柱にもたれ掛かることができる立見席の「一等席」、ホールの柱の前を確保しようとするのだが、この(立ち見)席にはライバルが居た。少しでも遅れて行くとこの席は、いつも決まって他の青年に占領されていた。その憎いライバルは見たところ年頃は同じ、青ざめた不健康そうな顔つきの、しかし、こざっぱりしな身なりの青年だった。あるオペラの休憩時間に、この青年とたまたま出くわしたKubizekは、会話を交わす機会があった。すると二人とも似たような趣味、つまり、オペラ(音楽)を持っており、年頃も同じであった為、すぐに仲良くなった。もっとも性格は正反対。Kubizekはどちらかと言うと控えめで、周りの意見に耳を傾けるのを好む一方、この新しい友人は、誰かの意見を聞くよりは、自分の意見を主張する方をはるかに好んだ。こういうのをちょうど相互に補う関係と言うのだろうか、二人は仲のいい友達となり一緒にオペラに出かけるようになった。

Kubizekにはまだ誰にも打ち明けていない夢があった。それは首都、ヴィーンの音楽大学で音楽家としての教育を受けて、将来は指揮者として音楽で生きていく事だった。しかし父親の希望を知っているので、これを打ち明ける勇気がなかった。そこでKubizekはこの悩みを友人に打ち明けてみた。するとこの友人は狂喜して、「それなら一緒にヴィーンに行って、勉強しよう!」と言い出したのである。この友人はかねてからヴィーンの芸術大学への入学を夢見ており、Kubizekの話はこの夢を実行に移すにはまさにうってつけ。ヴィーンで一緒にアパートを借りて、大学に通うという案は、まさに理想的に思えた。しかしKubizekが、「家業の跡継ぎを期待している両親には何と言えばいいのかわからない。ましてや、あの父親を説得できるとは思えない。」と心配事を打ち明けると、この友人は「そんなことは俺に任せておけ!」とまるで何事でもないように軽く請け負った。数日後、この友人はKubizekの家(工場)を訪ねてきて、父親に会見を求めた。Kubizekは工場で働きながら、父親と友人がオフィスに入ってゆくのを緊張して見守っていた。その後しばらくして、Kubizekは父親に呼ばれた。厳しい面持ちの父が開口一番に、「音大の入試に合格できるようなら、ヴィーンに行ってもよい。」と言ったときは、Kubizekは自分の耳を疑った。あの頑固者の父親を、説得上手な友人はわずか1回あっただけで翻意してしまったのである。
          
Kubizekは最初の入試で見事に入学試験をパス!これには流石の父親も息子の才能を認めざるを得なかった。こうして晴れてヴィーンで留学生活を送ることになったのだが、肝心の友人はヴィーンの芸大の試験に落っこちてしまう。しかし、母親を失くして孤児となっていた友人はもう戻る家もなく、そのままヴィーンに残りKubizekと共同生活を続ける事になる。共同生活が初まって1年ほど経った頃、Kubizekはゼミの夏期休暇でリンツに帰ることになった。しかし気がかりなのが友人。身寄りのない友人を一人アパートにおいて、一人両親の元に帰るわけにはいかないと感じたKubizekは、一緒に旅行することを提案するが、ところが、友人はこの誘いをガンとして断り、一人でヴィーンに残ると言い張った。そこで仕方なく、「また会おう!」と約束して分かれることに。楽しい休暇を過ごしてヴィーンに戻って来たKubizekは、Westbahnhofで出迎えに来ている筈の友人の姿を探すのだが、どこにも姿が見えない。「到着を知らせた手紙が届かなかったのかな。」と思いアパートに向かってみるがそこはもぬけの殻。友人はアパートの家賃が払えなくなり、姿を消してしまっていたのである。その後、どこを探してもKubizekは友人を見つけることができなかった。

その後、Kubizekは無事音大を(いい成績で)卒業、指揮者として前途輝かしい音楽活動を開始するも、不運にも第一次世界大戦が勃発してしまう。前線で負傷するも奇跡的に一命を取り留めた。かろうじて戦争は生き延びたものの、敗戦後の不況時にオペラやコンサートを見に来る人もなく、Kubizekは生きていく為に別の職を探さなければならなかった。(父親が苦労して立ち上げた室内装飾商業はとっくに破産して、工場は他の人の手に渡っていたので)職探しでかなり苦労した後、市役所で書記として職に就くことができた。戦後の不況がおさまると生活も安定して、結婚して家庭を築いた。その後、慎ましいながらも安定した生活を送っていたKubizekは、仕事の帰りに本屋の前を通りかかる。何気なく本屋のショーウインドウに飾られている新聞に目をやると、驚きのあまりその場で凍り付いてしまう。そこには「ドイツで最も有名な政治家。」という大きな見出しで、ドイツの政治家が写真入りで紹介されていた。Kubizekを驚愕させたのはその名前ではなく、その新聞に印刷されている政治家の顔。それは青年時代のあの風変わりな友人の顔なのだ!あれから歳月は経っているものの、新聞の表紙の顔は、間違いなく姿をくらました友人、Adolf Hitlerの顔だった!

何十年も会っていないので、果たしてAdolfが自分のことを覚えているか自信のないKubizekは、手紙を送ることも見送った。しかし、その後Hitlerがドイツで政権を獲得すると、かっての友人として、例え忘れられていても、お祝いの手紙くらいは書くべきだと考え直し、手紙を送ることにする。勿論、返事が届くなんて予想していなかったので、その後、何ヶ月も返事が来なくても、気にしなかった。ところがある日、自宅の郵便受けにドイツからの手紙が(黄金の鷲の透かし入り!)届いているのを見て、大いに驚いた。差出人は今やドイツの宰相となったAdolf Hitlerからで、冒頭はMein Lieber Kubizekl!で始まり、手紙の文章は昔の頃と同じDuで書かれていた。(ドイツ帝国内でHitlerにDuで話しかけることができる人物は3名しかいなかった。その内1名は、後に反乱を企てたとして銃殺された。)

1938年にオーストリアがドイツに併合されると、Hitlerがリンツにやってきた。「これは挨拶ぐらいはせんといかんだろう。」と考えたKubizekは、Hitlerが泊まっているホテルまで出かけるものの、ものすごい人だかりと警備でとてもホテルに入り込むことができない。そこで警備をしているドイツ人に「Hitler氏に会いたいんだが。」と言うと、まるで気が狂った人間を見ているような顔つきになり、「一体、あなたは誰ですか。」と聞かれる。KubizekがHitlerからの手紙を出して見せると、この警備員の顔色が変った。総統の個人的な知人に失礼なことがあっては、収容所送りになりかねない。そこで警備の人ごみを縫って、ホテルの入り口までエスコートされた。ホテルにて別室に通されると、警備の責任者Bormannがやってきて、「残念ながら、総統は体調が優れないので今日はいかなる面会もできない。再度、明日来てもらえないだろうか。」と、丁寧に尋ねた後、この自称、総統の友人という人物に大いに興味をそそられたBormannはHitlerの青年時代について根掘り葉掘り尋ねたらしい。

翌日、言われた通りにホテルまで出かけてくると、すでに話が伝わっているようですぐにホテル内に通された。廊下で旧友との再会を待ちながら、Kubizekは悩んでいた。最初の悩みは、「一体、どう呼びかけたらいいのだろう。」というものだった。昔のように「よう、アドルフ!」では流石に大ドイツ帝国の総統にふさわしい呼び方とは思えなかった。しかし、アドルフ、もとい、総統が昔のように「よう、グステル!」と呼びかけてきたのに、「Mein Fuehrer!」ではマズイ。一体、どういう呼びかけが適切なものかKubizekにはわかりかねた。又、別の悩みもあった。Kubizekが総統の昔の友人であることを知った同僚や近所の人から、「総統のサインをもらって来て!」と大量に総統のプロマイドを預かっていたのである。「果たして初対面(?)で、大ドイツ帝国の総統に数十枚のサインをお願いしたら失礼になるんじゃ?」そんなことを考えながら、胸ポケットに入っているプロマイドを触っていると、Hitlerが補佐官を連れて部屋から出て来た!Hitlerは即座に片隅に立っているKubizekをめざとく見つけると、"Der Gustl!"と叫んで、Kubizekの両手を堅く握り締めた。わけがわからないのでその場で立ちつくしている補佐官を放ったらしにして、Hitlerは、"Kommen Sie!"と言ってKubizekを隣室に招きいれた。Sieが使われたので、Kubizekは一安心。これでSieで会話をすることができる。

Kubizekがヒトラーを見た最初の感想は「昔と同じ。ただ年を取っただけ。」というものだった。奇遇なことに、ヒトラーの二言目も、「Kubizek!昔と同じだね。ただ年を取っただけだよ。」だった。この数十年ぶりの再会は暖かい雰囲気で流れた。Kubizekが総統に職業について尋ねられると、「生きていく為に、音楽を棄てて別の職に就く必要があった。」と答えると、総統は真剣な顔つきになり、「才能のある若者が金の為に、その才能を開花できないような事があってはいかん。」と、お互いの過去を振り返って言った。その後、Kubizekの子供がやはり音楽の才能があると言うと、総統は、子供の教育費を喜んで負担すると宣言した。(実際に、終戦まで教育費を負担した。)ここまでは順調な会見だったが、Kubizekには最後の悩みがあった。言うまでもなく、プロマイドである。会談が終わりに近づいたと悟ったKubizekは、清水の舞台(?)から飛び降りる気分になって、胸ポケットからプロマイドを取り出し、これにサインをしてもらえないか、尋ねてみた。するとヒトラーはごく当たり前のことのように、めがねをかけると、一枚、一枚、プロマイドにサインしていった。
    
1940年にKubizekはHitlerと最後に会う。ちょうどバイロイトで開かれていた音楽祭に招待されていたのだが、Hitlerは戦況の検討の為、音楽祭を途中で離れる事となった。そこでKubizekは路上でHitlerが車で通り過ぎるのを待っていた。Hitlerを乗せた車が近づくと大歓声が起こり、Hitlerが乗った車は人垣の中をゆっくりと走りすぎていく。そのとき、Hitlerは人垣の中で目ざとくKubizekを見分けると、運転手にKubizekの方向に車を進めるように命じた。Kubizekの前で車が止まると、車の上から手を差し出して、親しみを込めてKubizekの手を握り、"Auf Wiedersehen"と別れを告げた。その後も車の上から振り返って、手を振りながら去っていった。Hitlerが見えなくなると、群衆の最大の関心は「総統の特別な信頼を得ているこの男は一体何者だ?」に集中。群集に質問攻めにされたKubizekの答えは、"Mein Jugendfreund"(昔の友達だよ。)だった。興味のある方は、是非、オリジナルを読んでください。たったの20ユーロです。


「故郷に錦を飾る」ヒトラーのウイーン入城。




 
 


Enigma (26.11.2007)

日本人とドイツ人は、「会社名(ブランド名)をあまりにも重視する。」という点でよく似ている。今ではもうあまり使われなくなったが、数年前までは唯一の持ち運び可能な記憶媒体として活躍したフロッピーデイスクは日本人の発明である。そこまではいいのだが、その先がいただけない。この発明家は、日本の電気メーカーにこのすばらしい製品を売り込むべく努力したのだが、全くの徒労に終わった。日本の電気会社各社は、一個人、自称発明家の発明した製品に全く興味を見せなかった。拒絶の理由は、「どこの大企業がそんなものを使用しているか。どこも使用していいないじゃないか。そんな物は、うちでも要らん。」というわけだ。結局、この発明家は米国に渡り、米国の会社にこの発明品の販売権を買ってもらうことになった。その後の結果は、ご存知の通りだ。日本の電気会社各社はこの米国の会社にパテント料を払って、フロッピーデイスクを製作する羽目になった。日本人の発明した製品であるにもかかわらず。大企業の奢れのいい例だろう。

事情はドイツでも同じ。個人の発明家が発明したものには、すごく冷淡で、その意味を一向に認めようとしない。特に、その発明品が優れているものであればなおさらだ。大企業の面子を潰されたとして、相手にさえされない。実際、こうした先見の明のなさが第二次大戦でドイツが敗退した原因にもなっている。ドイツ軍は戦前、軍の命令の暗号化にEnigmaという暗号機を採用。これは何億ものコンビネーションが可能であった為、解読は不可能とドイツ人は考えていた。ところが、実際にはこの暗号は英国で完璧に解読されており、ドイツ軍の軍事行動は連合各側に筒抜けだった。

このドイツ軍の暗号機として採用されたEnigmaは、すでに第一次大戦中にドイツ人技術者により発明され、パテントが取得された。戦後、この技術者は暗号機をドイツ軍に売り込もうとしたのだが、当時はやっと無線が導入され始めた頃で、軍の命令は伝令兵か鳩で運ばれていたために、軍 にはそんな暗号機が必要になるとは考えられなかった。軍への売込みが失敗したので、この技師は1923年にスイスで開かれたメッセ(見本市)で、この暗号機を民間の会社に売り込もうとする。そしてこの暗号機に興味を見せたのが、よりによってチェコスロバキア軍。メッセにて2機のEnigmaを購入すると、本国にてこの実用化の研究を始めたのである。

その後、ドイツではナチスが政権を取ると、この暗号機の意味(重要性)を理解して、Enigmaはやっとドイツ軍ご用達となる。ところが、この時点で誰も、それまでにこの会社が販売したEnigmaを追跡調査しなかったらしい。軍に採用されてから、改善が施されて、コード本がなければ暗号の解読が困難になったので(しかし不可能ではない。)、それで安心してしまったのかもしれない。その後、チェコスロバキアはドイツに併合(占領)されてしまうが、この2機のEnigmaは、チェコスロバキア軍将校の努力で、ポーランドに渡る。 ドイツの次の攻撃目標になっていたポーランドは、必死になってドイツ軍の暗号の解読に努力、1939年の会戦時には暗号の大部分を解読できるまでになっていた。しかし、ドイツ軍の電撃作戦、又、ポーランド軍の過信(ドイツ軍の戦車に、馬に乗って槍をもって突撃して行った。)により、ポーランドは3週間で席巻されてしまい、暗号の解読も何の役にも立たなかった。

しかし、今度もEnigmaは破壊を免れる。ポーランドが占領される前に、ポーランド軍将校がEnigmaを持って国外脱出、Enigmaはイギリス軍の手に渡ってしまう。イギリス軍(諜報部)はすぐにこの暗号機の重要性を見て取り、これを国家機密扱いにして、暗号名ウルトラの元、暗号解読班が作られた。この結果、英国軍は暗号の解読に時間はかかるものの、暗号の大部分を解読することに成功する。ただ、まだ大きな問題があった。通常、大きな軍事行動を開始する際には、どこの軍でも機密保持のために、これまでの暗号コードを捨てて、新しい暗号コードを採用する。これにより、暗号解読班は新しい暗号を解読するまでに数日を必要としてしまうのである。一刻を争う軍事作戦ではこれは致命的。そこで英国政府は、ドイツ軍の使用している暗号コードを入手することを最優先課題として、その任務遂行を英国海軍に依頼する。英国海軍は、ドイツの潜水艦を航行不能に陥れると、これを拿捕してしまう。ドイツ潜水艦のキャプテンは、なんとか潜水艦を自沈ようと努力をするが、その努力虚しく、潜水艦が沈む前にドイツ軍の暗号コード本が「救出」されてしまう。

その後の戦争の経過はご存知の通り。ドイツ軍の軍事行動は作戦開始前に敵の知る所となり、どんな作戦を展開しても失敗に終わり、結局は敗戦してしまう。戦中、あまりのU-Bootの損失に驚いた海軍提督Doenitzが、「暗号が敵に解読されているのではないか。」と「大本営」に危惧を上申するも「我の暗号機は完璧であり、敵による解読は不可能。」と全く相手にしてもらえなかった。ドイツ人の自信過剰のいい例である。もっとも日本人(軍)の場合は、もっと悲惨。戦前にドイツ駐在の海軍武官は、ドイツの諜報部から「日本の暗号は米国に解読されているようだ。」と教えてもらったのだが、日本側の措置はあまりにも日本らしかった。暗号班の部屋の壁に「敵の諜報に注意せよ!」と書かれて終わり。これでは、負けるのも当たり前。ドイツ軍、日本軍、共に自身の暗号に過信してしまって、敵を過小評価しているのが両国に共通していて面白い。

その全く逆が英国だ。英国ではドイツを全く信用していなかったので、戦後、第三次世界大戦に備える必要ありと判断。勿論、仮想敵国はドイツ。そこで、英国を勝利に導いたドイツ軍の暗号解読は(次回のドイツとの戦いに備えて)戦後30年間も機密扱い。やっと1975年になって、この機密処置が解除されて、第二次大戦の大きな謎の一つが
周知の知る所となった。


エニグマが敵に解読された為の最も有名な被害者は、砂漠の狐こと、ロンメル将軍だ。ドイツ人らしく几帳面に灼熱の砂漠でも、暑くるしい制服を着用しているのはとってもドイツ的。


エニグマのお陰でロンメルの動きがすべて予見できて、ロンメルをエルアラメインで破ったモントゴメリー将軍


Muencher Abkommen (05.05.2008)

今回のテーマは、ミュンヘン会談。この会談については、すでにその内容についてご存知の方が多いと思うので、何か目新しい事を書くのは難しい。そこで幾つかの逸話を紹介しながら、この会議が引き起こした結果について、(当時の機密書類が公開されたので)別な面からの解釈をしてみたいと思う。

まずは、この会議の起こった状況について簡単に説明してみよう。ドイツは第一次大戦の敗戦でドイツの領土、それもよりよってフリードリヒ大王が獲得した土地の大部分を失った。これにより、ドイツ語を話すゲルマン民族がポーランド、チェコスロバキアなどに分散して少数民族として居住されることを余儀なくされた。この現状に我慢がらないのが当時のドイツ帝国の宰相、アドルフ ヒトラーだ。Ein Volk, ein Land, ein Fueher!をモットーにドイツの失われた領土回復に着手する。

手始めに、フランスに占領されていたライン川の東側領域(Rheinland)への進駐を命令する。すると将軍達は真っ青になってベルリンに飛んで来て、「そんな事をしたら、フランスが黙っていない。フランス軍相手では、再建されたばかりのドイツ軍には勝ち目はない。」とヒトラーに再考を促すが、ヒトラーは「フランスはドイツ同様に、新しい紛争を起こすほど経済に余裕はなく、これを甘受するはず。」とヒトラーの有名な先見の命にかけて、軍を進めた。果たして結果は、その通り。経済恐慌の煽りをもろに受けて、経済状態が破綻しているフランスは、このドイツの協定破りを甘受したのである。

ライン川を渡って進駐してきたドイツ軍は現地住民から大歓迎を受けて、花が雨あられと兵士達に投げつけられた。(この熱狂的歓迎を指して、この領土回復運動はBlumen Krieg/花の戦争と呼ばれることになる。)もっともヒトラーは自分の決定にそれほど自信があったわけではなく、「名だたる将軍に逆らって下した自分の決定は間違いではなかったのか。」と心中、穏やかではなかった。そこで、このドイツ軍のラインラント進駐中は、子供のようにビビリまくって、凶報(吉報)を伝える無線機の前から離れる事ができなかった。

この成功に気をよくしたヒトラーは、次は生まれ故郷のオーストリアのドイツ帝国への併合を考える。もっともラインラント進駐のすぐ後では、英国、フランスの抵抗が予想されるので、3年待って1938年にこれを遂行する。(それまでの期間、Heim ins Reich!のスローガンでドイツ国内でこの運動を盛り上げた。)

当時のオーストリアの首相、シュシュニクをオーバーザルツベルクに呼び寄せると、まずは恐喝にかけては第三帝国内では右に出る者がいないゲーリング元帥と会見させて、オーストリア併合に同意するように圧力をかける。シュシュニク首相が憤慨して、帰国しようとすると、偽装の空襲を演出、周囲を煙幕で包み込み、「首相の身の安全を確保する為」と称して首相を軟禁してしまう。敵の退路を断ったところで真打、ヒトラーの登場。「ドイツ軍のオーストリア進入を認めなければ、武力で侵入、オーストリアを制圧する。」と(はったりの)最後通報を言い渡す。先のラインラント進駐の「実績」があるだけに、このはったりが効いた、が、ちょっと効きすぎた。シュシュニク首相は切腹用の短刀を手に握らされて、「さあ、早く。」と言われたにも等しく、哀れにも気絶してしまう。これに困ったのはヒトラーだ。ドイツ軍の進入にサインできる唯一の人間が意識不明になったのだから、翌日にすでに計画していたオーストリア進入計画、"Unternehmen Otto"を侵入計画に書きなおさなくてはならない。(そんな事はできない。)早速、ヒトラーの侍医モレルが呼ばれ、シュシュニク首相に強心剤の注射を施す。すると意識を取り戻したシュシュニク首相だが、今度はこの注射が効きすぎた。強心剤の影響でシュシュニク首相は元気一杯になり、ドイツ軍の進入を拒絶するほど元気になってしまったのだ。それでも結局は、ドイツ人同士の打ち合いを避ける為、ドイツ軍の進入を認める書類にサイン、ラジヲ演説でこの事態の進展をオーストリア国民に伝え、感動的な言葉、Gott schuetze Oesterreichで演説を締めくくった。(注1)

この演説を聴きながら、計画が思惑通りに進んでナチスの首脳陣は悦に入っていた。そこでモレル医師が、「私の注射のお陰ですよ。」と注意をほどこすと、ヒトラーが(冗談半分に)"Zum Teufel mit deiner Spritze!" "Es waere beinahe schief gegangen!"「君の注射のお陰だって?冗談じゃない!その注射のお陰で、危うく計画が台無しになるところだった!」と言った逸話もある。

次の標的はチェコスロバキア。この国にはドイツ人少数民族が多く住んでいた。「ドイツ人が住んでいる部分は、ドイツの領土。」と、声高に主張して、チェコスロバキアのズデーテン地方のドイツ帝国併合を要求。フランス、英国がこれに反対した為、国際事情が一気に悪化。戦争前夜の雰囲気になったが、ここで絢爛豪華な生活を送っていた為に、戦争になってこの優雅な生活を手放したくない麻薬中毒のゲーリング元帥(注2)がムッソリーニに仲裁を依頼。名声を売りたいムッソリーニもこれに同意、ミュンヘンにて関係各国の代表が集まって利害の調整を行うことになった。もっとも、肝心のチェコスロバキアの代表は招待されされなかったが。(注3)

会議の顛末は皆さん、ご存知の通り。ドイツは領土要求をズデーテン地方のみに制限する事を条件に、他の大国がズデーテン地方の併合を認可したのである。一般にはこれはヒットラーの(恐喝)外交の勝利で、イギリス首相、チェンバリンの無能力を証明した会議としてされている。当然、その後の結果を知っているだけに、イギリスではこのチェンバリンの決断は人気がない。中にはイギリスの第二次大戦の苦戦の原因を、このチェンバリンの決断のせいにする論調も数多く見受けられる。ところが、最近、英国で当時の機密書類の機密が解かれて公開され、これを全く別の視野から見る事を余儀なくされている。

当時、チェンバリンはミュンヘン会談に出発する前に(あの有名な)英国諜報部に、もし会談で合意が見られずに破綻、その結果、ドイツとの戦争になった場合の英国の勝算について尋ねていた。諜報部の報告書を読んだチェンバリンはその目を疑ったに違いない。報告書には、「1938年に英国とドイツとの間で戦争になった場合、英国に勝算はなし。この為、英国の戦争準備が整うまで、ドイツとの紛争はなんとしても避けるべし。」と書かれていたのである。

この結論に達した背景には、英国空軍の近代化の必要性が最も大きな課題として挙げられていた。当時の英国の最新鋭機はHurricane。ドイツの最新鋭機は名機として名高いMe109。この両者はスペインの内戦で遭い交えたが、Me109はまるで無抵抗な鴨でも撃ち落すように、Hurricaneを空中戦で次々に撃墜してしまったのである。後に英国の救世主となったSpitfireは、1938年の8月に配備が始まったばかりで、数も少なければ、パイロットもまるっきり訓練ができてない。早急にSpitfireの量産体勢に入り、パイロットを訓練しても、戦争準備を整えるには最短でも1年はかかる。この為、戦争開始を可能な限り遅らすことが英国の至上課題となったのである。この報告書が原因となってチェンバリンは戦争を回避、ドイツとの(実際の会戦を)1940年まで遅らせる事に成功した。その結果がイギリスの勝利だった。

歴史に「もし」はないが、もし、1938年に第二次大戦が始まっていれば、戦争の流れ、結果は違った結果になったかもしれない。これまで歴史家の間ではミュンヘン会談の勝利者はヒトラーとされていたが、本当の勝利者はこれまで歴史家に冷遇されてきたチェンバリンだったかもしれない。

注1
この併合は実は、オーストリアにとってとてもラッキーだった。国民投票で99.73%のオーストリア国民がこの併合に賛成したのに、戦後、オーストリアはドイツの被害者の役を見事に演じ、早々に独立を回復、戦後補償も要求されなかった。
注2
1945年米軍に降伏、捕虜となったゲーリング全国元帥は"Wenigstens 12 Jahre anstaendig gelebt."「少なくとも12年はまっとうな生活をする事ができた。」と愚痴をこぼした。

注3
第二次大戦がドイツの敗戦に終わった際、チェコスロバキア政府はこのときの恨みを晴らすべく、報復に出た。まだズデーテン地方に残っていたドイツ人を街の広場に借り集めると、女、子供の区別なく機関銃で惨殺した。この惨殺に対して、チェコ政府は謝罪を(日本政府のように)今日まで拒否。ドイツとの関係を妨げる要因になっている。


本当の勝者は誰だ!?


会議の結果、ドイツ帝国に併合されたチェコの領域。

 


  

> トップ>バックナンバー >005 >004> 003> 002 > 001

(c)Pfadfinder24   > HOME   > お申し込み   > お問い合わせ   > 会社案内   > 利用規約   > サイトマップ