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ドイツ史の達人 1

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Wo der Wille ist,,. (08.09.2007)

ドイツの建国は、すでにここで取り上げたので、皆さん、すっかりご存知の通り。そこで今回はドイツ建国の原動力となったプロイセン建国について紹介してみよう。

プロイセンとはKurland地方のゲルマン民族の居住地の地域名。この地方に住むゲルマン民族はふたつの領域、ひとつはポーランドの支配下、もうひつとつは神聖ローマ帝国の支配下、に分かれていたが、30年戦争の結果、ひとつに統一され、Kurlandの諸侯であったFriedrich 1世が初代の皇帝となる。皇帝と言っても、プロイセンは地方の小さな諸侯のひとつに過ぎず、又、周囲を強大な国家に囲まれていただけに、自国の利益を追求するような政治は命取りで、小さなプロイセンは侵略されないように、外交には両天秤が必要であった。

18世紀になってFriedrich 1世を継いだプロイセンの2代目の皇帝Friedrich Wilhelm1世は、先代とは異なり国の出費を厳しく管理して、他の分野で節約した金を軍備につぎ込む。これによりプロイセンは小国でありながら、軍事力だけは他の諸侯並みになった 。そして1815年におきたPommern戦役では、デンマーク(当時は大国)、ザクセン、プロイセンの連合軍はスウェーデン軍を撃破、スウェーデン (当時は超大国)の支配下にあったPommern地方はデンマークとプロイセンの間で山分けに。これによってプロイセンの国は大きくなったばかりか、国際的にも「あのスウェーデン軍を破ったプロイセン軍」ということで一目置かれるようになった。以後、Wilhelm1世は(初代)Soldatenkoenig(兵士王)の敬称で呼ばれるようになる。

しかし、プロイセンが強国として地位を確立するのは、Wilhelm1世の息子で跡を継いだFriedrich2世になってから。Friedrich2世は幼少の頃からひ弱で、青年になっても気が弱く、Wilhelm1世は「これではプロイセンの将来は危うい。」と将来を憂いた。そこでなんとかひとっぱしの跡継ぎになるように厳しい教育を施すが、これが全くの逆効果。息子はスパルタ教育に恐れをなして、宮殿を抜け出し、仲のいい友達とイギリスに亡命しようとする。これを知ったWilhelm1世は激怒。Friedrich2世は、プロイセンを出る前に逮捕されて牢獄に放り込まれ、逃亡を助けた友人はFriedrich2世の目の前で処刑されてしまう。(もっともFriedrich2世は気絶してしまい、処刑は見ていなかったと言われている。)Wilhelm1世はこのどこまでも情けない息子に落胆して、プロイセンの将来を心配しながら死去してしまう。

ところがどういう風のふきまわしかFriedrich2世は、いざ、プロイセンの皇帝になると、これまでとは打って変って別のような人間になる。皇帝就任後、当時はオーストリア帝国の支配下にあったシュレージエン地方を占領。これが原因で第一次シュレージエン戦争が起こる。この戦役で最初のオーストリア軍との交戦になったMollwitzでの戦いでは、プロイセン軍を率いていたFriedrich2世は、戦争経験がないため、戦術上の大きなミスをおかしてしまう。「これはやばい!」と見た皇帝は、なんと戦場から逃げ出してしまう。皇帝不在のプロイセン軍を率いたのはSchwerin元帥。元帥は不利な情勢を建て直し、巧みな戦術でオーストリア軍を撃破してしまう。その後も幾つかの戦役があったが、バイエルン軍の応援もあってプロイセンはこの戦争に勝利する。

この戦役でプロイセンは著しく国を拡大して、列強の仲間入りをする。(参右上図)しかし、これは(領域を取られた)オーストリアには面白くない。 しかし、一人で軍事国家のプロイセンを攻撃するのは自信がない。そこでイギリス、オランダ、ザクセンを見方に引き入れて戦争準備を始めた。敵が戦争準備を整えて攻撃をしかけて くるまで待つ気など毛頭ないFriedrich2世は、先制攻撃を開始する。(第二次シュレージエン戦争/ 1744〜1745年。)当初はプラハの攻略に成功するも、補給が続かず、領内に退却する破目に。しかし、その後、ベルリンに進撃してきたザクセン、オーストリア軍を撃退すると、退却する敵を追撃、最後にはドレスデンでザクセン、オーストリア軍を撃破、1745年にドレスデンで和平条約が結ばれる。

復讐に燃えるオーストリアの女帝マリア テレジアは2度の敗戦にも懲りないで手抜かりなく3度目の戦争準備にかかる。まずは外交努力によりフランス、ロシア、神聖ローマ帝国、スウエーデンと同盟を結ぶと、プロイセンは欧州大陸ですっかり孤立化してしまった。今度、プロイセンの側についのは英国のみ。この四面楚歌の状況にあっては、先制攻撃あるのみ。(状況が絶望的になった際のプロイセンの伝統的な解決方法は、撃って、撃って、撃ちまくれ!)こうして最後のシュレージエン戦争は1756年に(第三次シュレージエン戦争/別名、7年戦争)勃発する。Friedrich2世はロシア軍が押し寄せてくる前に敵の主力、ザクセン、オーストリア軍の撃破を目指しまずはザクセンに侵入、これを占領する。しかし、ザクセンは神聖ローマ帝国の領土。領土を宣戦布告もなく占領されてしまったものだから、神聖ローマ帝国のドイツ人には面白くない。こうして神聖ローマ帝国(ドイツ諸侯同盟軍)がプロイセンに宣戦布告して兵を進めて来た。同時にシュレージエン地方奪回を目指してオーストリア軍も進軍を開始。さらにはスウェーデン軍が北方からプロイセンに侵入、挙句の果てには東方からロシアの大群がプロイセンに侵入してくる。いくら軍事力を誇るプロイセンでも、この圧倒的な兵力を誇る連合軍と同時に戦えるわけがない。シュレージエン地方はおろか、首都ベルリンまで(一時)占領されてしまう。
 
軍は多くの兵隊を失い、国は長い戦役で疲れ果て、国庫はからっぽ、プロイセンの運命は風前の灯。側近はベルリンにやってきて、「もう勝ち目はないから、国が無くなる前に和平を結んでください。」と嘆願するも、Friedrich2世は耳をかさない。しかし、流石に自国の領土が占領されて、兵力が減り続ける様を見て、頑固者の皇帝も自信が揺らいで「7日以内に戦況が好転しなければ、毒を煽る。」と宣言するまでに。この宣言後の5日目に奇跡が起きる。ロシアの女帝、エリザベスが死去したのだ。 これにより戦況は一気に好転する。長い戦役に飽き飽きしていたロシアが軍を引き上げると、スウエーデンも講和を申し出てきた。 これにより東プロイセンで戦っていた兵力が自由になったので、残った兵力を再結集してシュレージエンに投入、ここからオーストリア軍を駆逐すると、流石のマリア テレジアも負けを認めてこれ以上、兵を送ってはこなかった。最後は ヘッセン(プロイセン領)に侵入していたフランス軍を駆逐すると、7年にもの長きに渡ったこの戦役も1763年に終わりを告げ、プロイセンはシュレージエン地方の正当な所有者として国際的に認知されることとなる。

その後もFriedrich2世は欧州の状況を巧みに利用、ポーランド分割などでプロイセンの領土を広げ続けるも、実際に戦争に加わることはなく、国力の温存、増強を図った。こうして後にビスマルクとモルトケがドイツ帝国を築く基礎を作ったのである。言うまでもなくこの皇帝はドイツ(プロイセン)人に最も人気のある皇帝だ。(戦争に負けなかったから。)だから、ドイツのどこの町に行っても、Friedrich2世の別称、バルバロッサは通りや広場の名前に使われて、今日に至っても偉大な皇帝の業績を称えている。

歴史家の中には、「プロイセンが戦争に勝てたのは、何もFriedrich2世の功績ではない。状況の判断ができないただの頑固者で、たまたま運良く、ロシアの女帝が死んだので、戦争に勝てただけ。」という人が居る。しかし、もしFriedrich2世が、戦役の5年目に降伏していれば、戦役の6年目にエカテリーナが死んでも、プロイセンは何も得することがなかっただろう。肝心なのは、不利な状況になっても、決してあきらめず、目標に向かって努力する事だ。そうすればどんなに不運な雲の下にあっても、いずれは風向きが変り、じきに日が差してくる。ドイツ語でも、"Wo der Wille ist, da ist auch ein Weg."(意思のある所に、道あり。)と言うではないか。自分の能力を信じて、日々努力を積んでいれば、大抵の目標は達することができるものだ(と思う)。


Friedrich2世。
ドイツ人は愛情を込めてFritzか、畏敬を表してFriedrich der Grosseと呼ぶ。




シュレージエン地方占領後のプロイセン
          


Fall Gelb (24.07.2007)

今回のテーマは純粋な軍事史。それも興味のない人でも誰でも知っている第二次大戦の対フランス作戦(Fall Gelb)。結果は周知の通りで、ドイツ軍がフランス、英国派遣軍、ベルギー、オランダをわずか1月でなぎ倒し勝利した。第一次大戦では、同じ敵を相手に延々5年間戦って敗北しただけに、第一次大戦歴戦のドイツ軍将校は、フランス政府の停戦の申し入れを聞いて、涙を流して歓喜した。 ここまでは歴史の教科書などに書かれている通り。逆に歴史の教科書に書かれていないのは、どうして数の上で劣勢にあったドイツ軍が、優勢な連合軍を相手に勝利を収めることができたのかという事。そこで、今回はちょっとマニアックな内容になってしまうが、この勝利の秘訣について紹介してみることにしょう。

「防御態勢にある敵を攻略するには、防御側の3倍の兵力を必要とする。」ということは、戦術の最初の時間に習う基本中の基本だ。ところが、この戦闘では、数的に劣勢なドイツ軍が攻勢にでて勝利を収めてしまった 。これには何か特別な理由があるに違いない。その理由として、一般的(?)に信じられているのが、ドイツ軍は連合軍より多くの戦車を保有しており、かつドイツの戦車は連合軍の戦車より優秀だったという戦車優越説。しかし、これは全くの勘違い。対フランス戦でドイツ軍が投入できた戦車は全部で2439両 。その内、機関銃だけで武装した1号戦車が523両。口径20mmの「大砲」で武装した2号戦車が955台。37mmの大砲を装備した3号戦車が349両で、唯一モダンな4号戦車(砲等が短いタイプ)に至っては、わずか228両だった。これに比べてフランス軍は、一番軽い軽戦車がすでに37mmの大砲を搭載しており、ドイツ軍の戦車より武装、装甲の面で優れていた。これに加えて連合軍は4200両の戦車を擁しており、明らかに連合軍の方が数、性能の上で優勢だった。では劣勢なドイツ軍は一体どうやって優勢な敵を相手に勝利を収める事ができたのか、おのずと好奇心が沸く(筈だ )。

勝利の秘訣はドイツ軍の戦術にあった。ヒトラーはポーランドを2週間あまりで席捲してしまうと、兵力を西部戦線に移動、まだ年内(1939年)に西部で攻勢に出るべく速やかな作戦計画立案を参謀本部に命令する。この命令に従って参謀本部が立案した計画は、ここでも紹介したシュリーフェンプランにそっくりで、右翼に主力を置き、オランダ、ベルギーを通ってフランスに侵入する計画だった。これを見てヒトラーは「同じ計画で2度もうまくやり通せる筈がない。私は別の案を持っている。」と言い、数日後に陸軍司令部で開かれた会議でこの案を告げる。その案とは主攻撃はベルギー南部及びルクセンブルク方面に向け、ミューズ河を渡河、以後、北西方向に進撃するというものだった。(参地図右上)この案にすっかり不意をつかれた参謀本部では、この案について大きな議論が交わされれ、この議論に参加していたボック将軍は、この一件を日記に書き留めている。

しかし、作戦開始(当初の計画では11月12日が作戦開始日)が迫っていた為に、この時点での戦力の配置を変更するのは不可能で、ヒトラーは しぶしぶ焼き直し版のシュリーフェンプランでの攻撃開始を命じた。しかし、天候の悪化で作戦開始は1940年1月までずるずると延期される。そしていよいよ攻撃開始が目前に迫った1月10日に不運(それとも幸運?)な事件が起きてしまう。ドイツ軍の作戦計画を所持していた空軍少佐が、命令を無視して機密書類を所持して飛行機に搭乗、悪天候で方向を誤りベルギーに不時着してしまう。ベルギーの新聞は、「少佐は捕まる前に書類をすべて焼却した。」と報道したが、これは真っ赤な嘘で、機密書類の大部分は連合軍の手に落ちてしまう。

この知らせを聞いたヒトラーは(ゲーリングが少佐は書類を全部焼却したと言い訳をするも)かんかんに怒って、攻撃を追って沙汰あるまで(bis auf weiteres)延期する。案の定、本来計画されていた攻撃開始日には、オランダ、ベルギー 、フランスで非常事態が宣言され、戦争準備態勢に入った事から、攻撃の機密情報は敵側に知れ渡ったことが明らかになった。又、その後、天候の悪化も手伝って、攻撃は春まで延期されることに。こうして、宣戦布告をしておきながら、実際の戦闘にならない期間がずるずると半年以上も続く事になる。ドイツ語ではこの状態をSitzkrieg(座ったままの戦争)と言う。
          
攻撃が遠のいたので、ヒトラーはこの時間を有効に使うべく、主席副官のシュムント大佐を前線に派遣する。前線視察の途中で、 シュムント大佐はコブレンツの軍団司令部にてマンシュタイン将軍に出会う。マンシュタインは、ドイツの戦車部隊の生みの親、グーデリアン将軍と共同で独自の対フランス攻撃案を作成、これを何度もベルリンの陸軍参謀本部に上奏していたが、陸軍参謀本部長のハルダー将軍に嫌われていた為、全く無視されてしまう。ちょうどそこにヒトラーの主席副官が訪れたので、自分の攻撃案をシュムント大佐に紹介する。この案がヒトラーの攻撃案と全く同じ構想であった事に シュムント大佐は驚き、ベルリンに帰ると、早速、ヒトラーにマンシュタインの計画に着いて報告する。ヒトラーにとっては、マンシュタイン将軍が 自分と同じアイデアを持っていたことで持論の正しさを確信した。また、ちょうどマンシュタイン将軍がハルダー将軍に嫌われて、閑職に追いやられたことも、ヒトラーの持論、「陸軍の将官には、独創性に欠ける。もっとカール マイを読むべきだ。」を確証するものと映った。

マンシュタインがベルリンを訪れた1940年2月17日に、ヒトラーはマンシュタイン将軍と長時間、この案について語った。この会話で将軍の秀でた才能に感銘を受けたヒトラーは、マンシュタインに攻撃案の立案を命令、そしてこの新しい攻撃案(マンシュタイン計画)は2月24日に全軍に指令された。この攻撃案では、右翼に位置するB軍団はオランダに侵攻、この攻撃を敵に主攻撃と思わせて、正面にできるだけ多くの敵戦力を拘束するのが目的。そして本当の主力(主攻撃)となるA軍団はその機甲部隊を持って、ベルギー南部から侵攻、迅速にミューズ河まで進出、渡河、セダンにてマジノ線を突破、以後、英仏海峡を目指して北西に進出、英国派遣軍及びフランス軍の退路を遮断するのが目的。そして左翼となるC軍団には、側面防御の任務が与えられた。この攻撃案の成否は、敵にドイツ軍のオランダを通っての攻撃が主攻撃と追い込ませて、敵をベルギー領内におびき寄せる事ができるかどうかにかかっていた。もしイギリス派遣軍がこの餌に引っかからないでフランス領内でドイツ軍の到来を待つ戦略にでると、A軍団の進出が止められてしまう。しかし、 敵がこの餌に食いつけば、ベルギー領内に進出した敵は、A軍団で退路を遮断されて、「袋の鼠」となる。

そしていよいよ5月13日に開戦の火蓋が切って落とされた。ミュンスターアイフェルの総統本営にて戦況の知らせを待っていたヒトラーの元に、「英国軍、前進中。」との知らせが入ってくる。連合国軍は、先の空軍少佐の機密漏洩事件から、ドイツ軍の主攻撃は右翼にあると確信、ドイツ軍侵攻開始の知らせが届くと同時に、ベルギー領内への移動を始めたのである。つまりこの事件は、ドイツにとって大きく幸いした。この事件がなければ英軍は、敵の主攻撃方向がわかるまで、前進しなかっただろう。

ヒトラーは 「英国軍、前進中」の知らせを聞いて、「喜びのあまり泣き出しそうだった。」と、当時の感想を漏らしている。果たして、戦闘はヒトラーの思い通りに展開。 かってのシュリーフェン元帥でもこの案には感心したに違いない。まさかアルデンヌの山地の斜面を戦車部隊が通過すると思っていなかった連合軍は、いきなり目の前に現れた大量の戦車にパニックに陥り、逃げ出してしまう。数日後にやっとドイツ軍の企図に気づいた連合軍は、気持ちよさそうに前進する機甲部隊の側面を攻撃しようとするが、戦車を歩兵の補助としてのみ戦闘に使用するフランス軍は、側面を固めるドイツ軍の歩兵部隊に対して有効な攻撃を仕掛けることができなかった。そしてドイツ軍機甲部隊は戦闘開始からほぼ1週間で海峡に達し、連合軍は退路を遮断され「袋の鼠」となってしまう。ここでドイツ軍は油断してしまい、「袋の鼠」をまんまと逃がすことになる。 (ダンケルクの奇跡)その後、フランス軍はなんとか名誉だけは救おうと、内閣を改造し抗戦するも、すでに戦力の1/3を失ったフランス軍はドイツ軍の敵ではなく、ドイツ軍に停戦交渉を申し入れることになる。

このドイツ軍の成功の要因は、運良く敵側に間違った情報を信じ込ませることに成功した事にある。もっとも、企図していない運命のいたずらではあったが。これに加え、当初から優勢な敵を一撃で撃破するという(日本軍のような)無謀な計画を立てないで、まずは敵の一部を包囲、撃滅してから、数の上で優勢に立ち、それから敵の主力を叩くという二段階の戦術を採用した事があげられる。このドイツ軍の対フランス作戦は、数の上で劣勢にありながら、どうやって優勢な敵を叩くか、の見本を示した貴重な例である。


マンシュタイン計画



戦闘開始3日後の戦況。主攻撃のA軍団がセダンを突破して、戦果を拡大している状況がよくわかる。
 

戦闘開始8日目。敵軍は見事に包囲されている。 計画案とほぼ同じ戦況結果を見て取ることができる。
「計画通り」とはまさにこの事を言う。


  
Margarete Steiff (16.07.2007)

ドイツのお土産として日本人に一番人気があるのはSteiffのぬいぐるみ、テディベアではなかろうか。日本にも数多くのシュタイフのぬいぐるみが輸出されている。しかし、このドイツのぬいぐるみが何故、米国の故ルーズベルト大統領の愛称で呼ばれているのか、知る人は少ない。ましてや、このぬいぐるみを作っているSteiff会社の創始者が小児麻痺で半身不随の女性であった事を知る人はもっと少ない。そこで、今回は趣を変えて(?)シュタイフのぬいぐるみについて紹介してみよう。

1847年、バーデン ヴュルテンベルク州とバイエルン州の境にあるGignenという小さな町にMargarete SteiffはSteiff家の三女として生まれた。生後1年半の時に高熱が出て、これが原因で生後間もないのに、両足が麻痺、右手は苦痛を伴ってかろうじて使えるという重度の障害を背負ってしまう。 しかし、やさしい姉妹に恵まれて、学校までの長い距離を車椅子で押されながら学校に通うことができた。この頃の体験、他の子供は外で遊んでいるのに、自分は車椅子に座って見ているだけ、がMargareteの意思を強くしたようで、一度、決心したことは何があってもやりぬく性格を育てあげた。

Steiffの両親は、娘たちに手仕事を覚えさせるべく、(Margareteを除いて)娘たちを裁縫学校に送ることにする。 ところが、Margareteが自分も一緒に学校に通いたいと言い出 して、説得する言葉には一向に耳を貸さない。最初は、半身不随の娘が裁縫などできるわけもないと考えていたが、本人の意思の強さに負けて、Margarete も他の娘たちと一緒に裁縫学校に送る事にした。右手が不自由なので、ミシンを使う際には大変なハンデイキャップであるのに関わらず、持ち前の意思の強さでこの障害も克服、立派な成績で裁縫学校を卒業した。

この成功に気をよくした両親は、娘たちが手仕事で生きていけるようにと家の一角に裁縫店を開いてやる。このSteiff家の裁縫店は好評で、しばらくすると(当時は高価だった) ミシンを買うことができた。十分なお金が溜まると(稀に見る企業家の)Margareteは、フェルト(Filz)の専門店を開き、フェルト使った服を考案した。これがまた好評で、数年後には従業員を雇うまでになった。その後、新聞で見た像のぬいぐるみにヒントを得て、フェルトで像の枕をこしらえ、これが最初のシュタイフの最初の「ぬいぐるみ」となる。これが大ヒット商品。その年だけで600個(匹?)、翌年には1500個もの像の枕を生産した。Margareteは客の欲しがるものを当てる才能があったようで、本来は枕として作った像が、子供用のぬいぐるみとしてもっと重宝されてることに気づくと、翌年からは、他の動物の「ぬいぐるみ」も作成するようになり、会社の売れ行きは上昇する一方。

拡張を続けるMargareteの会社では、親戚一同が働いていたが、その内の一人、Margareteの甥、Richard Steiffが新しいアイデアを持ってきた。それはフェルトで熊のぬいぐるみを作るというもの。Margareteはこのアイデアに感心しなかったものの、 まずは熊のぬいぐるみを作成してみることになった。こうして誕生したのが、Teddy Baerだ。最も当時はBaerleという名前で売り出されたが。この世界最初のテデイ ベア(3000個)は、米国に送られるが、 「気に入らない。」として返品されてしまう。これに気を悪くしたMargareteはLeipzigで開かれたメッセで会社の他のぬいぐるみと共に、このBaerleも展示する。これをメッセで見て購入したのが、ルーズベルト大統領の秘書であった(そうだ) 。このぬいぐるみをプレゼントされたルーズベルトの子供達は大喜び。そこで、このぬいぐるみを(発音できないBaerleではなく)簡単に父親のニックネーム、Teddyと読んだ。こうしてテデイ ベア(の名前が)誕生した。
          
その後のテデイ ベアの人気はご存知の通りだ。今ではSteiffのぬいぐるみといえば、誰もがテデイ ベアを連想するまでに至っている。この世界で大人気のぬいぐるみは、 重度の小児麻痺の障害にも負けずに、自分の意思を貫いた偉大な女性の遺産だ。五体満足な体に産まれたにも関わらず、運命の意地悪で挫けそうなったら、このぬいぐるみを見て新たに勇気を奮い起こそう。



Steiff博物館に陳列されているフェルトの「像枕」。
 
 


Hart wie Kruppstahl (10.07.2007)

ドイツを代表する鉄鋼(つまり軍需)産業と言えば、Kruppの名前を抜きには語れない。30年代のドイツでは、zaeh wie Leder, hart wie Kruppstahl*(皮のように粘り強く、クルップ鋼のように硬く。)というスローガンがドイツ青年のあるべき姿として唱えられたほどで、今でもドイツではKruppの名前は鉄鋼の代名詞として使われている。(飛行船をLuftschiffと言わないで、Zeppelinと言うように。)そこで今回は、ドイツ統一の上でも大事な役割を演じたクルップ一族について紹介してみよう。

クルップ一族は16世紀にエッセンの町に難民としてやってきた。ペストが猛威を振るったドイツで、土地をただ同然の値段で買いあさり、最初の経済基盤を築いた。この金を元手に交易にて富豪となり、クルップ一族はエッセン市で最も裕福な一族となった。18世紀の後半にこの一族を継いだFriedrich Kruppは、家業の不動産業、交易に満足せず、新しい分野鉄鋼業に乗り出す事になる。

当時の欧州ではイギリスが鉄鋼の生産を独占していた。他の国は鉄鋼の鋳造の技術がなく、質のいい鉄鋼を生産することが不可能で、英国からの鉄鋼の輸入を余儀なくされていた。これに我慢のならないナポレオン1世は、「鉄鋼鋳造の秘密を解いたものは4000Talern(マルクが導入される前のドイツの通貨)を与える! 」と、懸賞金を出したほどだ。ちょうどこの頃、Kruppの元に「鉄鋼鋳造の秘密を知っている。」という二人の詐欺師が現れる。Kruppはまんまと騙されて、大金を失ってしまう。ここで鉄鋼業など放棄していればいいのに、 今度は自称、「プロイセン政府の元鉄鋼技師」という詐欺師にひっかかり、一族の財産を使い果たしてしまい、39歳の若さで絶望して死去してしまう。

このFriedrich Kruppの長男であったAlfred Kruppは破産寸前の父の工場で13歳の時から働かなくてはならなかった。父親の失敗(Versagen)の為、食べる物にも苦労して育ったAlfredは「父とは違う。」事を証明するために、同じ鉄鋼業で運命に挑戦する。 ちょうどこの頃(運のいい事に)、プロイセン政府の主導でドイツの諸侯の間で存在してい関税が廃止されたので、Kruppはプロイセンだけでなく、ドイツ中に製品を納入することが可能になった。そこでまずはドイツ国内をかけづり回って、仕事の契約と取ってくると、数年後にはわずかながらお金が溜まった。これを元手にイギリスに視察(産業スパイ)に出かけ、Schroppという偽の名前でイギリスの鉄鋼鋳造所を視察して回った。この視察(スパイ)旅行で、Kruppは鉄鋼鋳造の秘密を突き止める。それは特殊な鋳造方法ではなく、単に品質のいい鉄鉱を用いるという単純なものであった。

エッセンに帰国したKruppは早速、この知識を素に工業製品の鋳造にかかる。これまた運のいい事に、当時の欧州では機関車が発明されて、機関車の車輪、線路の膨大な需要があった。これまでの車輪は2つの別々に鋳造された車輪を溶接したものであったが、Kruppは初めて車輪を一個の製品をとして鋳造する事に成功する。これにより車輪の寿命は飛躍的に延びる上、生産費用も安くあがる。Krupp社にはドイツだけでなく、欧州中から注文以来が殺到して、Kruppは最初の富を築くことになった。 以後、クルップ社のロゴは、この会社の最初の成功を記念して、車輪が三つ重なったものとなった。 (3つの大砲を正面から見た物だといういわれもある。)
          
1851年にロンドンで最初の万博が開かれると、Kruppは今まで誰も見たことがない物、つまり43cmもの鉄の塊と世界で最初の鋳造鉄鋼から生産された野戦砲を展示品をとして送った。結果として鉄鋼の国、イギリスで開かれた万博であったのに、 よりによってKruppの鉄鋼が金賞を獲得する。このKruppの最初の鋳造鉄鋼の野戦砲を買ったのは、面白いことにロシアの皇帝で、その次はフランスの皇帝(ナポレオン3世)だった。 肝心のプロイセン政府は、「青銅の砲に比べて、値段が高すぎる。」という理由で一向に買う気を見せなかった。しかし、今度も運がKruppを助けることになる。軍需品への出費を嫌がった王の気が狂ってしまったのである。後を継いだのはSoldatenkoenig(兵士王)と 誉れの高いFriedrich Wilhelm 一世。Wilhelm 一世はSoldatenkoenigと呼ばれるだけあって、将来の戦役で役に立ちそうな物(者)には敏感で、(議会を無視して)プロイセン陸軍をKruppの大砲で装備することを命令した。(ちなみにモルトケの才能を一番に見抜いたのもこの皇帝だ。)この決定が原因で議会と皇帝の仲が(?)悪くなり、その仲介役として(両方に嫌われていた)ビスマルクが首相に任命されることになるという「おまけ」もついてきた。

その後の経過はすでにここで記述した通りだ。プロイセン軍の最新鋭の大砲の前に、大部分はまだ青銅の大砲を装備していたフランス軍は 、文字通り四散してしまう。以来、Kruppはプロイセン(軍)のご用達で、また外国にも大砲を売りまくり巨額の富を築くことになった。これにより人はKruppにKanonenkoenig(大砲王)の名前を奉った。ちなみに当時の日本の明治政府もKruppの大砲を買い、これにて日清日露戦争を戦っている。

*Kruppstahl クルップ社が発明したこれまでになかった強度を誇る装甲版。従来はクロムを加えて装甲を作成していたが、クルップの技術者が、鋳造の際に炭素を加える事により、さらに強度が増す事を発見した。この製法で作られた装甲版を総じて、Kruppstahlと呼ぶようになった。


アルフレッド クルップ。



       
 
 


  
Adidas gegen Puma (07.07.2007)

ドイツを代表するスポーツ用品メーカーといえば、周知の通りAdidasとPumaだ。しかし、これが元は同じ会社であったことを知る人は少ない。そこで、今回は (しぶしぶ)軍事テーマから少し離れて、AdidasとPumaの創立とその歴史について紹介してみよう。

時は30年代、バイエルン州北部のHerzogenaurachという小さな町にAdolf DasslerとRudolf Dasslerの兄弟が、Gebrueder Dassler(ダスラー兄弟)という(そのまんまの)名前のスポーツ用品店を開いた。 兄、Adolfは発明家で、「ドイツで一番履きやすいスポーツシューズ」を開発することに執念を燃やし、弟のRudolf は生まれつきのセールスマンで、兄の開発した靴を売り歩いた。このチームはとても効果的なチームで、1936年のベルリン オリンピックでは100m競争でこのダスラー兄弟の靴を履いた選手が金メダルを獲得 。Gebrueder Dasslerの名前をドイツだけでなく、世界に知らしめる最初の機会となった。

Gebrueder Dasslerの将来は、安泰に思えたがここで戦争が勃発してしまう。兄弟共に徴収されてしまうが、兄はたったの1年で軍役から開放されて、戦争中も会社を継続して運営する事ができた。運の悪い弟は、敗戦直前まで軍隊勤務で、終戦後は自宅に居るところを米軍に捕まって捕虜収容所にぶちこまれてしまう。そしてRudolfは収容所で、(Rudolf がナチス党員だったことを)密告したのは、身内の者であったことを知らせれる。

収容所から釈放されたRudolf は、兄にこれ以上一緒に働くことは不可能である事を告げる。従業員には、会社は二分されるので、どっちの側につくか、自由に選択できる旨が伝えられた。結果、開発組の多くは兄、Adolf側について、工場に残る事となった。逆にセールス部門の社員の多くは弟、Rudolf側につくことになった。Rudolf は同じ町の川向こうに工場を構え、会社をPumaと命名した。一方、兄のAdolfは自分のニックネームAdiと名前と組み合わせて 、これまでのGebrueder DasslerをAdidasと改名した。

その後のこの両者(社)の憎しみ(ライバル意識)は激しく、あらゆる場面で競争をすることになる。最初のチャンスはPumaに訪れた。Rudolf は、1954年に開催されるサッカーワールドカップに参加するドイツナショナルチームにサッカーシューズを納める契約を取った。ところが、選手が靴だけでなく、お金も要求したので、(倹約家の)Rudolf は怒ってこの契約を破棄してしまう。この契約を獲得したのは言うまでもなく、兄、AdolfことAdidasである。このワールドカップでドイツチームが早々に敗戦していたら、この契約騒動はたいした問題にならなかったかもしれないが、なんとドイツのナショナルチームは「ベルンの奇跡」と後に呼ばれることになる逆転劇で優勝して、ドイツに初のサッカー世界一のタイトルをもたらした。第二次大戦の敗戦で、落ち込んでいたドイツ人の気持ちを一気に晴らしたこの試合は、未だに伝説となっている。同時に、この奇跡を可能にしたAdidasは、以後、ドイツサッカー連盟と半永久の契約を結ぶことになり、今日までドイツチームはAdidasのサッカーシューズを履いてる。
          
ドイツチームの優勝を見て、Rudolfは「でかいヘマをしてしまった。」と語ったそうだ。以後、有名人にプーマの靴を履いてもらうべく、スター選手の獲得に乗り出すプーマ。その結果、サッカーの神様と呼ばれるブラジルのペレ、ドイツテニス会のスター、ボリス ベッカーなどを獲得することに成功する。ところが、これが原因でPuma破産の寸前にまで追い込まれる。ベッカーに払う契約費があまりにも高くついた。又、Adidasこの頃(80年代)は販売が落ち込み、会社の危機を迎える。

仲のいい事に(?)90年代に入ると、両者共に販売を伸ばして現在に至っている。ところで、去年、2006年にドイツで開かれたワールドカップの結果をまだ覚えておられるだろうか。ドイツチームが準決勝でイタリアに敗れて、イタリアが優勝したときに、ドイツで大喜びしていた会社があった。Pumaである。ドイツチームを筆頭に、世界の主要チームはすっかりAdidasの手中にあったが、このイタリアチームだけは例外。 よりによってそのイタリアチームが優勝したので、Puma社の喜びは大きかった。Pumaの靴を履いた(ユニフォームも)チームが 、ワールドカップで優勝したのはこれが始めてだった。

尚、Pumaの創立者であるRudolf Dasslerは1974年に死去するが、死の直前に兄との仲直りを希望、町の司祭に仲介を頼んだ。兄は弟の死を目の前にして、「もう恨みはない。」と語ったものの 、死の瀬戸際の弟に会いに来ることを拒絶。また葬式にも顔を見せなかった。4年後に兄が死去すると、兄の遺体(本人の意思を尊重して)は 、弟と同じ墓地内だが、弟とは反対側の場所に埋葬された。どうもこの兄弟、死んでも仲直りをする気はなかったようだ。







       
 
 


シュリーフェン計画と小さいモルトケ (19.06.2007)

軍事関係のテーマが続いて恐縮だが、今回のテーマは先のテーマの続きであるので、まとめて紹介した方が歴史の流れを掴みやすい。よって、敢えてここで紹介しておく事にする。軍事史に興味のない方は次回をご期待あれ。

ドイツ帝国の樹立が宣言されてから、欧州は40年以上にも渡って平和な時期が続き、ドイツにも黄金時代が訪れる。ヘルマン ヘッセの初期の作品には、この頃のドイツの牧歌的な様子が非常に美しく描写されており、当時の様子を伺い知る事ができる。

この時期は、表面上では平和な時期ではあったが、水面下では着実に次の対戦に備えての準備が行われていた。モルトケ元帥は、すでに当時、鉄道の戦略価値を見抜いており、ドイツ国内の鉄道の整備を遺言として残した。モルトケ元帥の後(正確には後の後)を継いだのは、シュリーフェン元帥(当時は大佐)。シュリーフェンは、次回の戦争ではフランス及びロシアとの戦闘になると予見、つまりドイツにとっては決定的に不利な二正面戦は避けられないとして、これに対処する計画を立てる。これが有名なシュリーフェンプランで、作戦の内容は知らなくても、ドイツ人なら名前だけは聞いた事がある。中国で言えば「出師の表」のようなもの。

計画では、フランス、あるいはロシアなどよりも整っているドイツの優秀な鉄道を利用して、敵が兵力の動員を完了する前にフランス国境にドイツ軍を集結。主力をもって、ベルギーを超えて北方からフランス領内に侵入。フランス軍が防衛態勢を整える前に、そのまま一気にパリまで南下。その右翼をもって敵の主力を包囲殲滅する。比較的短期にフランスを片付けると、またもドイツの優秀な鉄道網を利用して、兵力を直ちに東部戦線に移動、侵攻してきたロシア軍を叩くという。奇抜なプランであった。シュリーフェン元帥は1913年に死去するが、その遺言は「右翼を強大にせよ。」というものであったと言う。

このシュリーフェンの後を継いだのが、よりによってあのモルトケの甥にあたるHelmuth Johannes Ludwig von Moltke、俗に言う小さいモルトケだ。モルトケはシュリーフェンプランはあまりに大胆で、計画の成功を唯一のカード、つまりフランス軍の初期打破に賭けており、これでは危険が大きすぎると見た。そこで、「右翼を強大にせよ。」というシュリーフェンの遺言を無視して、主力軍から兵力を引き抜いて他の戦線を強化する計画を立案した。
          
翌年、第一次大戦が勃発すると、ドイツ軍はこの「修正」されたシュリーフェンプランを実行に移す。シュリーフェンの予測通り、ドイツ軍は素早く兵力を動員して、兵力を集結。フランスの準備が出来る前にフランスに侵入、国境沿いでフランス軍を蹴散らすと、一気にパリの前面まで進軍する。ドイツ軍はすでに戦争に勝った気分でいたが、ここで「マルヌの奇跡」が起きる。フランス軍がパリの前にある最後の自然の障害、マルヌ河の前面でドイツ軍の進軍を止める事に成功したのである。ドイツ軍は持てる兵力をすべて戦いに投入したがモルトケの立案では兵力が削減されており、フランス軍の防衛網を叩く前にドイツ軍全体が疲労困憊、勝利の一歩手前で力尽きてしまった。その後の成り行きは、授業で習う世界史に載っている通りだ。西部戦線は膠着状態になり、塹壕戦に移行する。東からはロシア軍が侵入してきて、当初は侵攻軍を包囲殲滅するも、その後もロシア軍は次々と兵力を増強して、ドイツは二正面戦を強いられる。以後、敗北を遅らせる事はできたが、勝利のチャンスは二度と訪れる事はなかった。

歴史家には「もし」という言葉はタブーであるが、「もし、モルトケがシュリーフェンプランを忠実に実行していたなら、、。」は、ドイツ人なら(多分)誰でも一度は問う疑問だ。「弱体した右翼にて勝利の一歩手前まで行けたのだから、シュリーフェンプランを忠実に実行していたなら、勝てたのに、、。」というのは、ドイツ人に共通する意見である。以後、モルトケは偉大なモルトケと区別する為に、小さいモルトケというあだ名がついた。ちなみにシュリーフェンも(大)モルトケほどではないが人気者で、ドイツの町には数多くのシュリーフェン通りが存在している。


シュリーフェンプラン。(クリックすると拡大されます。)



シュリーフェン元帥
 


die grosse Moltke (10.06.2007)

記念すべき(?)最初のドイツの達人は、ドイツの諸葛亮孔明と言うべき、Helmuth von Moltke、通称 die grosse Moltkeだ。日本で習う世界史には、ドイツ統一について、「宰相ビスマルクが富国強兵政策を推し進め、戦争に勝ってドイツ帝国を築いた。」と簡単に説明されている。しかし、当時のプロイセンは日本で言えば、北海道のようなもの。どうして北方の一諸侯に過ぎない北海道が、大国までも戦争で負かす事ができたのか、歴史に興味のある人なら大いに好奇心を駆られる事だろう。しかし、日本で習う歴史では何処を見ても「富国強兵」の一言で済まされている。これでは不満が残る。当時は毎年のように欧州で戦争があった時代だ。そんなご時世に、どこの国が軍備を削減したりするだろうか。当然、どこの国も富国強兵に勤めていた。では何故、よりによって欧州の小国であったプロイセンが、欧州の列強諸国を打ち破る事ができたのか、歴史家の好奇心をくすぐる課題である。

その答えは、当時のプロイセンには他の欧州諸国にはないものがあったから。それは徴兵制とモルトケという人物の存在である。モルトケはドイツ北部の町Mecklenburgに生まれ、なんと11歳にてデンマーク軍に将校候補生として入隊した。その後、22歳になってプロイセン陸軍に将校編入、(今では考えられない。)プロイセンの陸軍大学を卒業して、プロイセンの将校となる。しかし、その後のプロイセン軍の中では早い出世には恵まれず、58歳にしてようやく参謀本部長の要職に付く。その後、1864年にプロイセンとデンマークの間で戦争になると、すでに64歳の高齢に達していたモルトケは、プロイセン軍の作戦計画を立案。その優れた立案でプロイセン軍は勝利して、Schleswig州をプロイセンに併合してしまう。(この為、今日でもこの州にはデンマーク人が居住している。)

この戦争後、ビスマルクはオーストリアのHolstein支配にいいがかりをつけ、プロイセンとオーストリアの間で戦争になる。この戦争ではプロイセンはたった一国で、オーストリアだけでなく、オーストリアと同盟を組んだザクセン、ハノーファー、ヘッセン諸侯軍とも戦う事になるが(バーデンとはその前に戦闘をまじえて、勝利していた。)、モルトケの素晴らしい作戦計画で、プロイセン軍はザクセン、ハノーファー、ヘッセン諸侯軍を次々に各個撃破。最後はオーストリアに侵入して決戦となる。この戦いに際して、モルトケは大胆にも軍を3つの梯団分けて別々のルートで戦場に向けて行軍させた。モルトケの案では、3梯団は戦場にて始めて合流することになっており、敵の側面を突く主攻撃の任務は、皇太子が率いる梯団に与えられた。戦術の定石では、軍を密集隊形で戦場に向けて行軍させ、これを密集して戦力に投入する。これにより、防衛線を攻撃側の圧倒的な兵力で突破する事が可能になるので、モルトケの案はこれまでの定石を覆すものだった。

戦場となったのはオーストリアのケーニヒスグレーツ。ここはオーストリア軍の演習場であり、すでに防護の準備が整っていた。オーストリア軍の砲兵は、敵が戦場に現れると距離を測る必要がなく、直ちに正確な射撃を開始することができた。1866年7月2日深夜にモルトケは3軍に翌日の攻撃指令を出す。ところがこの攻撃で主攻撃を行う予定の皇太子の率いる部隊には、やっと7月3日朝の4時になってこの知らせが届く。軍隊というものは、映画でよくあるように5分やそこらで進軍準備ができるものではない。ようやく朝の8時になって皇太子の率いる軍隊は戦場に向けて行軍を開始するが、この時点でモルトケは戦場に間に合って到着していた他の2梯団でもって攻撃を開始していた。この不足する兵力でモルトケは、オーストリア軍のよく準備された防御線に対して無謀とも思える正面攻撃をかけさせた。(まるで日露戦争時の日本軍の無謀な旅順要塞の突撃のように。)オーストリア軍にとって、これほど簡単な防護戦はないように思われた。オーストリア軍の箱庭に進軍してきたプロイセン軍は、大砲の餌食(Kanonenfutter)となり、壮烈な場面が展開された。流石に鍛え上げられたプロイセンの歩兵も、敵の大砲の正確な射撃に遭って前進できず、多くの死傷者を出して退却する部隊が出る始末。これを見た皇帝は自信を失ってモルトケに、「退却のプランはどうなっているのか。」と聞く。これに対してモルトケは「この戦闘にはプロイセンの存在がかかっているのです。退却はありません。」と答えて皇帝に他の選択肢を与えなかった。

午後の2時頃になると、プロイセンの敗戦は避けられないように思われた。攻撃をかけた部隊の兵力は半減して、かろうじて戦場に留まっているも瀕死の状態。これを見たオーストリア軍は、プロイセン軍に止めを刺すべく、突撃の準備にかかる。ちょうどそのときビスマルクは望遠鏡で、戦場の北方に動きを認める。まるで森が動いているように見えたのは、やっと決戦の場に到着した皇太子率いる軍であった。これを見て取ったモルトケは皇帝に近寄り、「これで戦闘の帰趨は決定しました。」と言う。しかし、皇帝が見る限り敗戦の一歩手前の不利な戦況で、モルトケの言う言葉の意味がわからず「一体、それはどういう事か。」と尋ねると、「皇帝陛下。勝利は陛下のものでございます。ウイーンは陛下の足元にひれ伏しております。」と祝辞を述べた。もっとも、皇帝には何が何なのかさっぱりわからなかったが。ところが、戦局はまさにモルトケの予言通りに展開。プロイセン軍に止めを刺す突撃の準備の為、オーストリア軍は側面の軍隊を引き上げてしまっていたのだ。ここに皇太子率いる軍が攻撃をかけたので、オーストリア軍の防護体制は一気に粉砕され、戦場を放棄して退却する羽目になった。30分前は敗戦確実と思われた戦いが、最後の30分で輝かしい勝利に変わったのである。モルトケは最初からこれ、つまり敵はプロイセン軍の弱体を見て取ると、側面防護をおろそかにして防護から攻撃に移るを予見していた。だから、皇太子率いる軍が戦場に現れた時点で、勝利を確信した。別の言い方を用いれば、オーストリア軍は、まさにモルトケの予想通りに反応したわけで、モルトケの手中の駒であった。もっとも皇太子率いる軍が、あと30分遅れて到着していれば、プロイセン軍は粉砕された後で、側面攻撃も役にたたなかったろうが。戦後の祝賀会で補佐官が皇帝に「皇帝閣下は今や偉人として、プロイセンの歴史に名前を残されました。もっとも皇太子があと少し遅れていたら、プロイセンを敗戦に導いたひどい皇帝として歴史に名前を残していたでしょう。」と言ったのはまさに的を得ていた。

こうしてついにプロイセンがドイツ連盟の主導権を握る。これを見て気に入らないのがバイエルン王国だ。バイエルン王国こそ、ドイツ連盟の盟主にふさわしいと思っていたので、成り上がり物のプロイセンには我慢がならない。当然の成り行きとして、今度はプロイセンとバイエルン王国の間で戦争になるも、バイエルン王国軍はプロイセン軍の敵ではなく、あっけなく戦争は終焉する。ちなみにこの戦役の際のバイエルンの王は、ノイシュバンシタイン城の建築で有名なルートヴィヒ2世である。ついでながら、この戦争での敗北を根に持って、バイエルンの人間は今でもプロイセンの人間が大っ嫌い。

プロイセンがドイツの覇権を握ると面白くないのがもう一人。フランスのナポレオン3世だ。1世のようの欧州の覇者になる事を夢みていたので、強大なプロイセンの出現で、欧州の覇者になる夢はぶちこわしだ。その頃、スペイン王位が「空席」になったのだが、ビスマルクが極秘にHohenzollern家の人間を王位につけようと画策。フランスにしてみれば、プロイセンとプロイセンの息のかかったスペインに囲まれるのはどうしても避けたい。この王位継承問題がきっかけで、戦争になる。この戦争の時、すでにモルトケは70歳の高齢。しかし、モルトケの天才を先の戦役で見た皇帝は、もう戦争になる前からプロイセン軍/ドイツ軍の勝利を信じて疑わず、あっさりと開戦を承諾。結果は、果たしてその通り。モルトケの立案による戦術の前には、ナポレオンも成す術なく、フランス軍は相次いで敗退、セダンの戦いではナポレオン3世自身がドイツ軍の捕虜になってしまう。ところが、これが戦争の終結が遅れる原因になる。敵の将であるナポレオンを捕虜にしてしまったので、フランス政府を代表して降伏文書に調印できる人間がいなくなってしまったのである。結果としてこの戦役はだらだらと1年以上も続く事となり、我慢のならないビスマルクはパリのヴェルサイユ宮殿にて、プロイセンの皇帝をドイツの皇帝として、ドイツ帝国の樹立を宣言してしまう。

この戦役後、モルトケはドイツ国内で軍神扱い。高齢を理由に皇帝に辞職を願い出るも、モルトケが居なくなると、ロシア、フランス、オーストリアが復讐をしてくる事を恐れて、辞職は拒否されてしまう。まるで「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のごとし。以後、モルトケが生きている間は、どの国もドイツと戦闘を交えようとはしなかった。結局、モルトケは90歳になるまで国に仕える事となる。尚、今のドイツでもモルトケは人気者。どんな小さな町でもモルトケ通りがあり、モルトケ広場、モルトケ公園の数は知れず、町の至るところでモルトケの銅像、彫刻を見かける事ができる。もっとも最近の若い年代は、プロイセン人(ベルリンっ子)でもモルトケを知らない人が出てきた。時代の流れだろうか、、。


戦いの前に近衛兵を検閲するWilhelm 1世



ベルリンにあるモルトケ元帥像。ベルリンの観光名所に建っています。       
 

    ケーニヒスグレーツの戦勝を描いた絵。皇帝の後ろにはビスマルクが、その横にはモルトケが描かれている。



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